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「私はこうありたい」を考える。

里山百手プロジェクト、今年度の三年生との授業はこれが最終回となりました。
最後のテーマは、「自分はこうありたい」「こういう風になりたい」を考える。
話の始まりはこの人から。

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弘法大師、空海。かの偉人、空海が、海を渡って日本へ持ち帰ったものといえば、【真言密教】です。
空海はその経典とともに、密教の信仰に必要な道具【法具】も日本へ持ち帰りました。

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こういうものです。
この法具の役割は、「頭に全て入れておくには深淵すぎる密教の教えを分解し、それらを少しずつ法具に込めることで、頭に常に全ての教えを入れずとも、法具を使うことでその都度込めた教えを想起させること」。
これを現代社会の身近な例で言えば、

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例えば旅行で京都へ行き、お土産にあぶらとり紙を買ったとします。旅行から帰ってきてこのあぶらとり紙を使う時、きっと頭には旅行の思い出が一瞬のうちに想起されるはずです。言語にしたら膨大な量になる情報が、一瞬で甦る。凄いですよね。
さらには、

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このマークを見ただけで、
下記のイメージが意識せずとも浮かんでくるでしょう。

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ロゴマークにはハンバーガーもポテトもモチーフとしては含まれていないのに、一瞬でイメージが浮かびますよね。
モノを見たら意識せずとも即座に、モノに紐づいた記憶や想いを連想する、想起する。人の脳にはそういう機能があります。空海が用いた「法具」とは、そんな脳の機能を使った“記憶の甦り装置”もしくは“想いの発現装置”だったのです。
僕はこのことを知って思いました。「これは生活に取り入れたら非常に役立つ装置が作れそうだなー!」と。
【流れ星が流れている間に願い事を3回唱えられたら、願いが叶う】なんて言うじゃないですか。アレはつまり、流れ星のように一瞬で消える上に、いつ来るかも分からないものがいきなり現れても、その瞬間に3回唱えられるくらい常に想い続けている願いなら、そりゃ叶いますよねって話です。
願い続け、想い続けたことはきっと叶うんです。では叶わない願いがなぜ多いのかといえば、それをずっと想い続けることが難しいからだと思います。勉強や仕事が忙しかったり、何かに悩んだり、他のことに興味が湧いたり。日々のさまざまな出来事の中に、願いや想いは埋もれていきます。そうしてやがて、流れ星が流れても願いを即座に思い出せなくなったり、なんなら空を見上げて流れ星を探す心の余裕さえなくなってしまうことも。
そうならないために、“自分だけの法具”を作って生活の中に置いて、「自分はこうありたい」「こういう風になりたい」という想いを忘れずにいようよ!というのが今回の趣旨です。
授業は三段階に分かれます。

①「自分はこうありたい」「こういう風になりたい」を考える
②それを想起できるような何か(=自分だけの法具)を工作する
③みんなの前で考えたこと、作ったものを発表する

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それぞれ自由に自分らしい表現で、自分だけの法具を作り上げていきます。

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「中学時代に出来た友達をずっと大切にできる自分でありたい」
「誰にでも優しく、人助けができる人になりたい」
「感謝を忘れずにいたい」
「人の目を気にせず自分らしさを大切にしたい」
みんなそれぞれ、様々な「自分はこうありたい」「こういう風になりたい」を想起させる“自分だけの法具”が出来上がりました。
友達の想いや作ったものを見ることで自分を相対化でき、発表の見聞きを通してさらに自分をよく知ることも出来たのではと思います。
今回作った法具は部屋のどこかに飾って、この法具を目にするごとに、その願いを思い出してください。そして、自分を大切に、自分が生きたいように生きる人であってくれたらと僕は願います。

かのジャン=ジャック・ルソーも、著書「エミール」の中で『名誉・権力・富・名声といった社会的な評価から自分を測るのではなく、自分を測る基準を自分の中にもち、「自分のため」に生きながらも、同時に「公共のため」に生きることを両立する主体』を育てることこそが教育の目的であると主張しました。この「自分」と「公共」の順序は逆になってはいけないと僕は思いますし、ルソーもそう言っているはずです。「自分はどうありたいのか」、その軸を持った人はいつだって魅力的なものです。「みんなが言ってるから」「みんなこうだから」、そんな理由で無思考、無批判にまわりに流されるのはもったいない。公共のための判断ができることはとっても重要ですが、順序は間違えないでください。

ここで、なぜ里山百手プロジェクトの今年度の最終回だというのに、畑と全然関係ない内容なんだよ!という疑問への回答を書いておきます。
そもそも里山百手プロジェクトの目的は、
・目的を達成しようとする時、問題に立ち向かう時、そのための手段を百手持つことができる力を養う。
・時代が百手先まで進んでも通用するような、根源的な知恵や哲学を学ぶ。
・活動を通じて、世代、立場も様々な仲間を百人持つ。
これらを達成することで、【目指す地域像=「より多くの人が自己実現に向かう地域」】を実現することです。
そのための手段として、地域にある使える資源(里山、田畑、人材、知恵など)を使って学びを深めてきました。
前回までの授業で、作物の育て方、加工による価値の高め方、価値を伝えるためのデザインの仕方、その売り方、宣伝方法など様々なことを共有してきました。これらの知恵や技術は、「この地域で、自分の力で生きるための知恵や技術」です。これらを持っていれば、食べれるし、稼げる。まぁだからといってこれだけで生業として食っていけるってわけではありませんが、中学生活を過ごしたこの南摩地区の環境と、自分の身ひとつで、人を喜ばせたりお金を稼いだりすることが出来るという実感は持ってもらえたのではと思います。
この実感は、既存のシステムからの抜け道の鍵となり得ます。
既存のシステムって何が言いたいかといいますと。この社会でどう生きるか、その選択肢を増やすのに最も有効なのは、現状では「偏差値を高めること」です。いい大学を出て大手企業に就職するにはそれしかありません。偏差値が高い人は、高い人しか選べない道、低い人でも選べる道、両方から好きな方を選べます。これが人生の選択の自由だとすれば、生徒の人生の自由度を上げるために教育に出来ることで最も有効なのは、偏差値を上げることです。
これが、今の社会の構造の問題だと僕は思うんです。「個性を伸ばす」「その子らしく」などと掲げたところで、結局人生の自由度を左右するのが偏差値なのだとしたら、構造上、本当に生徒のことを考えたら偏差値の向上に重点を置かざるを得ません。
しかし、選択肢の多さが人生の自由度を測る指標なのであれば、他にも選択肢を増やす方法はいくらでもあると思いませんか?偏差値が必要な選択肢なんて、社会のほんの一部にすぎません。社会とは、学校で学んだよりもずっと深淵で、複雑で、雑多で、怖くて、あったかくて、彩豊かで、面白可笑しいものだと、多くの人が社会に出てから知るのです。でもそのことは、この社会にそれぞれの場所で蠢いているそれぞれの人しか語れないし、伝えられないことだったりします。そのことを実感と共に学校へ持ち込んで、既存のシステムの片隅に存在している裏口の場所や、そのドアを開ける鍵を手渡せる門外漢が僕以外にも次々と現れたら、生徒たちは今よりずっと多様な選択肢を手に、より自由に、より自分らしい人生を歩んでいけるのではないでしょうか。
自分らしく生きる人が増えることは、社会を本当の意味で豊かにし、そこで生きる人の暮らしも豊かにするはずです。僕はそういう社会に身を置きたい。その方が絶対おもしろいから。ですので僕は来年度も、そう考えて自分のために門外漢として学校へ関わり続けていきます。ルソーの言葉を借りれば、「自分のために」を考えて、それが「公共のため」に繋がったんです。南摩中学校は来年度からコミュニティスクール指定校になります。これを読んで下さったあなたも、ぜひあなたのために、あなたらしい形で一緒に学校と関わっていきませんか?

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