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家無し宿暮らしな「新生活」-Week(?-5)

※この記事は大いなる幸福感に満ちています。ご注意ください

「家無し宿暮らしな〜」という本記の題名に疑問を抱き、携帯を凝視してから15秒ほどが経った。

家無し宿暮らしの、の方が正確じゃないの。

けれど家無し宿暮らしは形容動詞ではないわけで「静かな空間 > 静かの空間」のように「な」の方が自然とも言い切れない(「静かの空間」にしたってアート作品の題などに平気でありそうである)。

けれど「家無し宿暮らしの『新生活』」としなかったこということは、おそらく微妙なニュアンスの違いに引っかかるところがあったのだろう。

今思うところだけでも、「あくまで「家無し宿暮らし」的な生活なのであり、「家無し宿暮らし」なわけではない」という可能性には容易に思い至る。軽くどういうこと?ではあるが。

タイトルって結構重要だと思うんだけれど、まぁ変えるほどのこだわりもないし(というか当時の自分が「な」を選んだのだから、それが正解なのだ)、あくまで据え置きつつ、なんとか後悔してみようと思う。

あの日あの時あの場所で「な」ではなく「の」としていれば私は今ー。

実に馬鹿馬鹿しい話である。これほど取るに足らない差異がもたらすバタフライ効果は、ほとんどのケースで無視できる範疇に収まるはずだから(ということを証明し得ないとしても、自分を十分に納得させることはできる)。

むしろ、後悔というのは、やはり、ある程度の大きな選択に迷い、そして間違った時にするものなのだ。そして「何かをした後悔よりしなかった後悔」というのは通俗的にして芯を食っているとは思うが、何かをした後悔もやはりこの世の中には数多く存在する。

そしてそれ以上に、あの時あの場所にいた(だけ)的なコントロールし難さと、それを含めても含まずとも複合的に絡み合うした後悔/しなかった後悔、その大きな波に我々は時折飲み込まれる。

勘違いしないでほしいが後悔なんて避けられるものではないという考えのもと、「悔いのない人生」を美徳とし標語に掲げる人と私とは、相容れない。後悔を含めた人生の暗く複雑な諸感情に向き合うことこそが、人生の妙でなければ、(そうであったとしても人生には大義や価値があるとは思えないのだし)、救いようがない。

「後悔」というテーマと自らの別れ話を結びつけて記そうと思ったのだが、その対象は別れたことなのか付き合ったことなのか、判然としないというよりどちらでもない。

どちらでもない以上に、それら以外も含めどれでもいい。あまりにも急展開を見せた今が放つ輝きは、過去の自分ごとき、あるいはたかが他人ごときがもたらす翳りでは覆いきれない。端的に言って私は別れ、そして出会った(厳密には逆でもあるのだが)。

後悔を通して選択の精度を上げてきただとか、後悔をしても前進する感覚だけは獲得し続けてきただとか、そんなレベルの低い話ではない

例えば前々回の恋人と付き合う際、私は確実に選択をした。2〜3ある選択肢からベターな1つを、選んだ。そして前回の恋人と付き合う際も、同じように2〜3ある選択肢から1つを、選んだ。どちらか一方では後悔のないようにと躊躇いながら、どちらか一方では何を選んでも後悔なんてするはずがないという開豁な気持ちで。

今回はどうだったか。二又や三又に分かれた道などではなかった。気が付くとたった一本の開かれた大きな道に立っていて、そのまま進むか、その場で座り込むか、それしかなかった。そして確かに、やるか/やらないか、という選択は「Aをやるか/Bをやるか」という選択とは比べ物にならないほど簡単であった…!!

最後からN番目の恋。N=1であることを願う余裕さえないのは、我々の時間の大部分を不確かな未来の予感に満ちた極めて狭い今が覆い尽くしているからだろう。それにしても事が早い早すぎると感じるかもしれないが、私だって驚いている。至るベくして至った結果だとしても、やはり驚きを隠すことはできない。

転機となった3週間前や2週間前。そして1年半前、1年前、半年前、軽視してきた時間たちが再び意味を持とうとしている。

今、カプセルホテルでこの原稿を書いている。「電話は外でしろよ!」と関西弁訛りで怒鳴った者がいる。

むしろ、電話してくれていた方がいいと個人的には思う。カプセル内では基本的にずっとイヤフォンを装着しているので、近隣セルからの鼾なども気にならない。提供される耳栓を使用したこともない。

何かを聞きながら寝落ちすることが多いので、そのうちベッドとセルの壁の間にイヤフォンを落としてしまうとだろうが、その時は後悔するだろうか。急いでいる朝に、しかし毎度チェックアウトをしなければならない五反田のカプセルホテルにて、落としたイヤフォンを回収する暇があるだろうか。

そんな事態はイヤフォンをしながら寝落ちする就寝スタイルを変えることができる。

  1. カプセルホテルではなく通常のホテルに行く(あるいは家を・・)

  2. 何かを聞きながら眠りにつく必要のないくらいに疲れて目を閉じる

上記を行ってもいいし、行わなくてもいい。他の目的もあるのなら、行うメリットは大きいだろう。しかし別に行わなくてイヤフォンを無くすくらいの後悔が、何かを大きく変えてしまうとはどうしても思えない。なぜならそれは取り替えがきくから。つまり我々は取り替えのきかないこと/ものに後悔しやすいのではないか。

時折イヤフォンの充電が切れたりなどした際には、5分ほどイヤフォンを充電している間だけ、何も聞かずに過ごすことがある。そんな時は、外からくぐもった通話の声が聞こえていた方が、安心する。鼾よりは、誰かの通話の声がいい。狭いセルの中で外に通じようとする感じが、いいではないか。

私が2週間前に元恋人からの電話に応じた時は、極力小声にするよう努めていた。狭いカプセルの中は自分と携帯のみで居心地がよく、外は危険で悪意に満ちた臭いがする。しかし外に飛び出さないと、欲しいものは手に入らない。なるほど。外に飛び出さないと、欲しいものは手に入らない。連泊でも毎日チェックアウトしなくてはならない定宿の制度は、実の所とても健やかなのだ。

暫くは自分にフォーカスを当て、美味しいワインを飲んだり資本主義に絡め取られてハッスルしたり、友人とNBAの話をしたりして。マッチングアプリを試み、そうして穏やかに過ぎ去っていく日々。

その想定は一瞬で選択外となった。ひょんなことから(あるいは計画性のもとに)ある人と朝まで飲み、翌日の夜に再びお酒を飲み、その二日後に再びお酒を飲んだ。これで全て。全てが変わるために必要だった全てのプロセス。

でもそれも本当は言葉が足りていない。なぜなら最近新たに出会った誰かではなかったし、案外それまでの全てが布石となってこんなことが起こり得るのかという形で今に通じたから。確実に運命ではあるとして、それはまた別の見方だ。

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少しだけ眠れなかった。別れ話をした夜、少しだけ眠れなかった。それは気持ちが残っていたとかそういう話では勿論なく、ここまで半年間にわたり時間を無駄にしたのかもしれないという申し訳なさがぐずついたためだ。人に申し訳ないと思うことはほとんどないはずなのに、一時的にせよ自分にフォーカスが向いていないのは良くない状態だったと思う。

けれど、それもたった30分遅かったくらいの話で、翌日はいつもと同じ時間に起きた。たとえ一晩中眠れなかったらどんな人間性を示せたというのだろう。優しいくて粘着質?私がそんな人間ではないことなど自分も周囲も分かりきっているのに、言い訳がましく示すポーズに何の意味もなかっただろう。

この文章はあくまで家のある者たちに向けて家の無い者が書く記録であり、私情を撒き散らすことを目的としていない。そういう意味では、私がどんな恋愛をしてどんな人間であるかを知るツールとしては機能しない。そんなくだらない目的は、私とワインを飲めば数時間である程度果たせることだ。

上記は、別れ話記としてのみ記す場合に、本来書く予定であった文章。下書きに保存した後で全てが変わってしまった今、馬鹿馬鹿しいにも程がある。なぜなら私情を垂れ流さないことには機能しない記録へと変貌しているからだ。私はそれほどまでに今幸福で、特別な安心感と高揚感の絶妙なバランスの渦の中にいる。ふむ、
特別の安心感と高揚感の絶妙のバランスの渦の中。

今年は仕事に邁進した一年ではあったが、FOMO(Fear of Missing Out:取り残されることへの恐れ)を逆張りでこじらせてたな、と思う。いや「取り残されることへの恐れ」という定義的には本質をついたまま、ただSNSという特定の対象を気にしなかっただけであるか。

SNS等の発達と普及により、我々現代人は垂れ流され続ける最新情報を浴びていないと「自分のいないところで楽しいことが起こっているのではないか」「自分だけがチャンスを取り逃がしているのではないか」と不安に思う。

そこを逆張りして「今SNSを見ていたら本当に大事なチャンスを逃すのではないか」というのが、私が患った天邪鬼的FOMOである。あるいは、誰かといても「別の人と過ごせるはずの大事な時間を逃しているのではないか」と、不安に思う事が多かった。

もう今そんなことを思わなくていいのは、なんというか久しぶりお帰りなさいという感覚がある。つまり私も幸福の形式というものは元から知っていて、それを知っていたと気づくのにも再現するのにも時間がかかったようです。

抜け目ない者の不安感。私が苛まれていたそれは、結局FOMO的FOMOではあるのだろう。つまり人間として当たり前だよねというお話。そしてその不安感こそが、今回契機を逃さなかった最大の要因だと私は分析する。

バタフライ効果の話をもう一度しよう。自分らしい選択しかできないはずの自分が「謎にストイックなモード」に入って「向こう半年間の自分を最も痛めつける決断をしよう」と決めたならば、私は同じ結果を得られていただろうか。答えは、多分だけれど、No。

おそらくどれだけ事を先延ばしにしても、年内には同じ決断(別れる)をしていただろう。しかしその決断の先に、今回と同じ芳しい結果を得られていただろうか。答えは、NoよりのI don't know.

こうして考えると鳥肌が立つ。100%Noとは言えないのに、こうして記し読んである程度客観的に判断する以上に、まるで手に入る気のしないこの感じ。上記の想定では、AとBという2つの事象が、別の時間と空間で分け隔てられている。しかし私が今生きる浮世離れした現在は、BにA'という仮面を被せたことで発生している。「ここでこの行動をとることで、私は私の欲しいそれにグッと近づく」と、本当に信じ切った。まるでAとBに確実な関連性があるように錯覚したことで、私の時間はA→A'(B)という連続性を獲得し、A'(B):happyにたどり着いた。

そう思うと、自分は本当によくやったと思う。今私がいるこの時間は、一つのクレバーな選択だけでは勝ち得なかったもので、複数の要因が絡み合い起こった人為的な奇跡だ。

そう、これは祝福的なお話だが、とても人為的で、意図をもって作られた現実である。私はこうしたいと決め、こうするにはどうすべきかを練り、それを実行に移した。そのようにして欲しいものが手に入った浮遊感が「これは作られた現実だ」と伝えている。そしてこの現実は、どこまでいっても正しい。

カキ2コイリ様がオーダーする、フィローネキーマカレー。まるで牡蠣カレーのような味わいを錯覚できる、しかも店員さんが「カキ2コイリ様〜」とちゃんと呼んでくれたのもポイントが高い。なぜこれは呼んでくれるのに「ウマミミネンブツ様」を躊躇うのかは、謎。
ChatGPTが応援してくれる、気持ちのいい秋の朝

私が生きるこれらの作られた現実は、作った時点でもうその中を泳ぎ進むしかない大海で、どうせ万物を生み出せるのであれば馬を生み出し陸を進んだ方がよかったのではないかという疑問は残るが、結局泳いでいるうちにどうとでもよくなる。なぜなら重要なのは進むことであり進む手段ではなく、進んでいる限り息継ぎがうまくできず呼吸が辛くても取るに足らない、本当に辛いのは進めないことである。

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仕事が行き詰まったとある日の午後、休憩も兼ねて近くのコインランドリーに洗濯をしに行った。自動扉を開けて中に入ると、会釈をしてくる男性がいる。"そういう人"なんだろうと思い、会釈を返すだけで余計な視線を注がないようにした。洗濯物を洗濯機に放り込んで(と言いつつしっかり丸まった靴下を広げたりなどし、案外スムーズではない)硬貨を5枚入れてスタートボタンを押す。その瞬間に背中で声がする。
「よかったら乾燥もやっておきましょうか」
「え?」
思わず声が出てしまった。善意って、怪しいものだ。
「私この店の者なんですよ。よかったらやっておきますよ」
懐疑心を捨て切らず、一旦腑に落ちたことにする。
「でも今コインなくて」
「コイン?」
「小銭がなくて。乾燥分はちょうど1万円をコンビニで崩しに行くところだったんです」
これは本当のことである。
「乾燥は何分やりますか?」
「え?いつも30分ですね」
「そしたら1時間後に戻ってきてください。その時300円頂戴しますね」
「はぁ。ありがとうございます。では」
納得し切ってその場にとどまるよりも任せて立ち去った方がいいと判断したのは、怪しいという気持ちを拭い切れていなかったからこそ。しかし怪しいのであれば、服に何かされる可能性もあるわけで。しかし、私はどうとでもなれと思うのが気持ちいいタイプの人間だったりする。自分でコントロールできることを放り投げて自暴自棄になるのはむしろ忌避すべきだが、自分でコントロールできないことや意想外なことには身を任せた方が効率がいい。私はそう考える人間である。

宣言通りコンビニで昼食を買って小銭を確保しつつ、買った昼食をオフィスに戻って食べ(ランドリーの前を通らないように少しだけ遠回りをした)、NBAをちょっとだけ観戦したりなどして1時間後にランドリーに戻った。この店の者だという男性は、ベンチに座ってスマホをいじっていた。

テーブルの上に乾かされ、さらには綺麗に畳まれた衣服が乗っているところも想像してはいたが、そうはなっていなかった。礼を言って300円を渡す。指差された乾燥機の中に、私の3日分の衣服はあった。手にとった時に、少しだけ濡れていた。

30分もあれば十分に乾くはずなんだけれど、もしかして20分しか回さず、100円をぼったくろうとしていたのか?コインランドリーなんてかなり効率の良いビジネスをやる人間がそんなことをするだろうか?しかしあるいは、コインランドリーをやっているだけあり、小銭マニアかもしれない。すでに集め切っていた年の小銭を使って見知らぬ人間の乾燥機を回し、コンビニ経由でランダムに届いた小銭が自らのものとする方が、収集には役立つのかもしれない。

まぁ良い。微妙に乾いていないと言っても、厚めの靴下の先が多少湿っている程度れ、これは日向でなくても30分程度放置しておけば、臭いも残さず乾いてくれることを、私は経験から知っていた。

「いつもいらっしゃるんですか?」
尋ね答えを聞いてからであれば「そんなはずない」と分かりそうなものだが、質問の形式としてはとても丁寧で、自然な会話の一部だったと思う。
「そんなことはないですよ。今日みたいに布団を乾かす日は、来るんです」そう言いって、自動扉の方を指差した。

3日分の日付と時間が紙に貼られていて、布団なんちゃら〜〜の文字が見える。依頼されて客の布団を乾かすサービスなのか(何らかのコツがいるのか、あるいはは単に嵩や量の問題で需要があるのか?)、大量の布団を乾かすために多くの乾燥機が埋まっていることを伝える張り紙なのか。なるほどと一度頷いてしまったこともあり、「今後もよろしくお願いします」と挨拶をしてから扉前で立ち止まる気にもなれず、張り紙で詳細を確認することはしなかった。大量の布団を乾かすのであれば、ゲストハウスなども手掛けているのかもしれない。そんな想像もした。

私は留学初日に出会い私がヒップホップ音楽にハマるきっかけを与えてくれた人物(会社経営者)がコインランドリービジネスに注目していたことから、コインランドリーを営む人はかなり効率重視で敏腕というイメージがあり、ゲストハウスなどを手掛けていても不思議ではないと思ったのだ。

しかし、効率を重視するのであれば月に3日、3時間程度もランドリーにずっとい続けるのはなんだかおかしい気もする。稼ぎは十分すぎるからむしろそんな時間こそ大切にしたいのか(私が洗濯物を洗いにきた時は突っ立っていて、帰ってきた時はスマホをいじっていたけれど、確かに洗濯物のよい匂いの中でスマホをいじるのは至極幸せなことなのかもしれない)。あるいは、偶然の出会いや人との関わりを大切にしているのか、世話を焼くのが好きなのか、洗濯に関してのみ親切するのが趣味なのか。

いずれにしても、人の手が自らの濡れた洗濯物を乾燥機に運ぶというのは、双方にとってあまり気持ちのよいものではない気もする。もしかしたら、変なことをされたかもしれない(例えば、スウェットの襟首をめっちゃ伸ばされた、だとか)。

けれど何かされていたとしても、私はそれで良いのだ。自分の物に人が触れることが嫌ではないし(Macbookを舐められたらさすがに怒るかもしれない)、100回同じ状況にいたら90回は同じように甘えている(甘えるという言葉も最適ではない気がするが、残りの10回はイヤフォンをしていたこともあって普通に無視できているかもしれない)。

しかし、人が皆そうとは限らないことも知っている。自分の物に触れられることがたまらなく嫌な人もいるし、そもそも私が男性だったからなんとなくほのぼのとしたミニマルな交流話となったものの、女性であったらただの頭のおかしいランドリーオーナーである。私は自分の所有物であったりバウンダリーであったりという感覚が、人よりも欠落している。だからこそ家無し宿暮らしを行っているということを、しっかりと自覚したいと思う。まるで、木々を飛び回る鳥のように自由な生活を送っていると思うことも思われることもあるが、あくまで自分の性質に則ったある種機械的で無機質な生活を行うことができている、それが特権的なことかどうかは別にしても、普通ではないことを、ありがたいと思うかはさておき、ひけらかす必要もないが、自覚することには意味がある。

なぜなら誰しもが自分の生活を知ることで自分を知ることができるから。自分のことを知っていないといざという時自分が何をしたいどんな人間なのかが曖昧になって、重要な判断に迷ったり機会を逃したりするかもしれないから。

恋愛をするたびに(誰かを好きになったり、誰かと別れたりするたびに)自分に対し自覚的になれると思う。だが勿論恋愛以外にもそんなチャンスは転がっていて、どんなに感情を大きく揺り動かしてくれる恋愛さえも自分の生活を見つめ直す機会の一環でしかない。最も大事なことではあっても、この観点においては、いち一環にすぎない。より大きな自分という存在。

さて、今こうして自覚性が鋭く立った私が、今後の自分の人生をどのような方向に導いていくのか、それは今の私にも分からない。他人はもちろん、どの時点の私にも実際わからない。現在は常にその一瞬のみであり、導かれた先で振り返るのは常に過去である。

そこで私は深呼吸を一つして、Tinderを開いた。まずはプロフィール写真を設定しよう。
そこで私は深呼吸を一つして、LINEを開いた。おそらく人生を変えるであろう相手に返信をするために。

私は私が作った現実の中で、二つの選択肢のうち、どちらかの行動を取らなかった。

私はこのお話を、全てが決定されるであろう少しだけ前にほとんど書き終えた。もし実現しなかったら、全てをスクラップにするつもりだった。つまり賭けに出た。この文章をあなたが読んでくれているということは、私が賭けに勝ったということだ。私は望むものを手にした。あなたには今、有頂天の私がどん底に落ちると信じて見守る権利がある。だがそうなるにしてもそれはしばらく先のことだろうし、私は今そんな風になるつもりは毛頭ないしイメージも湧かない。そしておそらく、おそらくだが、このまま最愛の人と共に歩んでいくと思う。

ちなみに洗濯物が微妙に乾いていなかったのは多分、店主にぼったくられたのではなくて、3段階で選べる乾燥温度が低かったからだと思う。繊維を労わってくれたんだね。

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