家無し宿暮らしな「新生活」-Week(?)

はじめに

今回のこの記録の対象は、結構前のことである。というとなんだか半年くらいは時間が経ったように思えるのだが、実は1ヶ月程度前のことを記している。なんだ1ヶ月くらいしかサボってなかったのかと思ったあなたはもちろん騙されている。私は3ヶ月くらいサボっていたのだよ。その間にあった諸々を全て知ることも、そのうちできるとは思う。あなたがいい子にしていれば、の話だけれど。

Day 151〜の様子

疲れている。いや、もう疲れていない。疲れていただけだ。

あるいはまだ疲れている。しかし月・火と一日中働いて迎えた水曜日の心身は妙にスッキリとしていた。

明快。

例えばテイラースウィフトの22年のアルバム『Midnights』を聴く時、私は22〜23年の年越しにかけて訪れた京都を思い出す。

なぜ、直近の4月の回ではないのか。端的にいうと、前回の方が感傷的で、そして始まり的だったからだ。

1月の寒々しい京都のアーケード街で「Anti-Hero」を聴きながら一人アウターのポケットに手を突っ込んで歩いたことは(実際のところ私は必ず歩きスマホをするので、片手は冷たい宙にあった。あるいは、珍しく感傷的になり、両手ともポケットに仕舞った状態で歩いたのだったか) 、あまりにも簡単に実現できる自己陶酔で、思い返すとつまらない。

しかしそれが今年の始まりだった。

友人らが元恋人と食事をしている間に私は一人アーケード街を歩き、映画を観たりなどした。そして友人らが元恋人と過ごしていない時間には私が彼らと一緒に食事をした。ちょうど京都に滞在中、2023年5月現在もコミットしている主業務にも取り掛かり始めた。同じ時期に現恋人も古都にいて、日時は違えど同じワインバーを訪れていたらしい。

今となってはこうして特別な意味を付与できもするが、当時はただ寂しかっただけだ。共通の友人を元恋人と分け合うような奇妙な感覚があった。今となってその感覚が消失したのは、元恋人が完全に私の人生から消えたからだろう。つまり1月の京都旅行には終わりにして始まりのような意味を与えることができる。しかしそれは後付けで、ただ寒かっただけだ。

そもそも私が見ている・関わっている友人というのは、私専用のものである。他の人なんて知らん。他の人が見ている・関わっている友人の姿までは、見えないし関わり得ない。私がいくつもの側面を持ち合わせているように、友人らもまた多面的である。私の全面を把握できていない私が、他人の自分とは無関係の面にかかずらおうなんて、時間の無駄であり悪趣味であり他でもない私の尊厳を損なう愚行ではないか。ルービックキューブは一面を揃えるのに精一杯なのだ。

「他人に期待しない生き方」という言葉にすると随分自己啓発じみていてチープだがとても重要な、考えの応用編的なとこっすかね、これ。

例えば、NBAのプレーオフの重要な試合にて一人のスター選手による超人的なパフォーマンスでの劇的な逆転勝ちを目の当たりにすると、私の些細な日常が水面下で良化し続けていることを一瞬忘れて、私が私の現行の日常ではないところで劇的に何かを変革している様を、妄想してしまう。

ふむ、地に足を着けないといけない(水面下で地に足を着けるってめっちゃ難しそうだけど・・)。

私が進んでいるこの日常は、1月に始まったそれの延長である。その繋がりを意識することに拘泥するなら、繋がった先の今も肯定しないといけない。それは少し面倒なことでもあるが、日々は確かに少しずつ良化している(10代の頃に比べると特に)。

そんな風にNote執筆を再開した日(ふふ、何を隠そう本記を仕上げるのに一ヶ月もかかったよ)、気の置けない友人2名と気の置けない友人1名が働くお店にワインを飲みに。ちょっとお高めな日本ワイン(お店価格で約12,000円)、高いから美味いという思考は、なかなか振り払うことが難しい。

長野は小諸のシャルドネ。私は素直に美味いと思った。綺麗だが余韻と含みをしっかりと有している。綺麗なだけではないことの重要性をヒシヒシと感じさせてくれる。

消費者の在り方として正しいかはさておき、私はワインの値段を気にしないようにしている(とは言っても数十万円のワインを日常的に飲むほどの財力はなく、たとえ3ヶ月に一本飲めたところで、希少性によって評価がブレるため、悪趣味と判断して実践しない)。

3,000円のワインであろうと8,000円のワインであろうと、美味ければそれでいい。私は飲食店でも働いているが、飲食店を営むのに必要な、動機やら才覚やら、色んなものは悉く欠けているのだろう。

月に合計で15万円ワインに費やすのなら、ある程度の本数と酔いは担保したいわけで、15,000円のワインを10本だけ飲むような余裕はないとはいえ、3,000〜8,000円ほどのレンジであればフレキシブルに本数と価格を無視できる、というより何も気にせずにただグビグビと飲むだけなのだ。

ちなみに上記の価格は、お店価格だったり宅飲み価格だったりも混同したものとなっている。この辺り、私は本当にテキトーなのだ、飲み手として。情けなくはないが。

さて、今回のワインに関して重要なのは、友人1名も「非常に美味である」と言ったことだ。もちろん、文字通りに言ったわけではない、そんな鼻につくような物言いをする友人であるならば、ナチュラルワインなんか飲まずにクラシックワインだけ飲んでいればいい(おっと、この発言はナチュール派と反ナチュール派の分断を促進しかねないが、正直私はワインに関して一プレイヤーでありながら、そういう分断を傍観して楽しむタイプなのでやはりどうでもいい、勝手にやっていてくれ、私はあくまでただの物書きだ、なぜか毎日ワインがするすると胃に落ちていくだけの)。

※1プレイヤーって書きたくて「一プレイヤー」と記述したが、プレイヤーをカッコ付けてるだけみたいになったな。括弧付けてるというより、線をつけてるんだけど。〜L'Arc〜en〜Ciel〜。

(´·з·`)ノ-=≡☆-=≡☆-=≡☆-=≡☆-=≡☆-=≡☆

こういう注釈事項ばかりをつらつらと書き連ねていく傾向ゆえに、話が一向に進まないのである。

友人が「非常に美味である」と言った。

これにより、私にとってワインが美味しさを増したということが重要なのである。つまりは友人と美味しさを共有できた喜び、ワインを選んだ私が認められたような気がして高まる自己肯定感、そういった要素で酒の美味さは最も簡単に倍増する。

Day152に関してはそれが言いたかっただけ。この調子でいくと、10,000字越えちゃうけど大丈夫かな。まぁ私の目的は読者の睡眠時間を削って活字中毒を引き起こし寿命を縮めることだから、致し方ない。ヤらせてくれ!

上記は、私がNoteをサボっていた理由に直結する事項である。仕事が忙しかった。以上だ。

恋人ができたことは関係ないのだが、恋人ができるまでのプロセスにかなりの知略と体力を費やしたのは事実だ。好きかどうかは本能に従うが、その人を恋人にするかどうかは知略と体力で、計画性をもって遂行する。

こういう風に書くと人生全てをストラテジックに推し進めるクソ野郎に聞こえるが、私はそのきらいがある、多分。高校2年の時に難関大への進学を期待していた教師君を暴論でねじ伏せてドロップアウトしてから、私は各人の人生は完全に一人の所有者に属するものであり(言うまでもなくあなたの人生の所有者はあなたであるべきだ)、その進捗は所有者の推進力次第であり、そのために他者と互いを利用し合うという構図を重視してきた。

利用し合えない人とは分かり合えない、それだけのことなのである(分かり合えなくても影響し合えるが、その影響の重要性に気づいたり認めたりするのは容易でない)。

ということで、現恋人と仲良くワインを飲み始めてから、思うように恋人関係に至ることができず、知略と体力の限りを尽くして(仕事に影響の出ない範囲で)、晴れて恋人になれるまでの期間、やはり私には本記を書くことができなかった。優先事項を決め、欲しいものを手に入れるまで努力し続ける、私が推進力と呼ぶその力を行使せずにはいられなかった。

さて、重要なことを忘れてはなるまい。恋人関係に至るために奔走したこと、恋人ができたこと、恋人の家を拠点とした生活を始めたことで、本記の本質が根本から揺らいでいるではないか。

「家無し宿暮らし」とは。

今はあんまり問い質さずに見守ってほしい。とりあえず、そのうち書き上げる4月の京都旅行記を読んでから、色々判断していただきたい。その頃に私は27歳の誕生日を迎えているかもしれない。大人になっているかどうかはさておき、無事に27年も生き永らえてしまったのなら、もうそれは仕方のないことだ。

それでいうと(あまりにも不適切な接続語)、この日もう一つ重要な出来事があった。

菊川の友人宅に置いていたスーツケースを回収しにいったのだ。

回収する直前までの私の財産分布を整理すると、このようになる。

・生活必需品:その日泊まる所
・金:諸々の口座
・衣服1:元同居人宅
・衣服2:菊川の友人宅
・衣服3:恋人宅

他になんかあったっけ。

いや無いのである。私の大事な全ては、私の脳と指先、携帯とラップトップ、以上に集約されている。

回収したスーツケースは、一度馬喰横山駅のコインロッカーに預けた。入っていないように見えるが、入れ切る前なので心配しないでほしい。あんまり余計なことで心配するようだと、養子に入るよ。母性をフルに発揮させてあげる。

うむ、やはりスーツケースをコインロッカーに押し込むと、「家無し宿暮らし」感が一気に高まって良い。

家無し宿暮らしを始める前の私の頭の中では、ホステルの二段ベッドの下段にて、上段に眠る誰かの身体できしむ木枠にこそその真髄が宿るような予感があった。

そんな予感はもちろん現実のものとならなかった。まず、ホステルのベッドに寝る時には、Youtubeで何かしらを聞いているのでベッドの軋む音など聞こえない。その上、木枠はただの木枠である。

とはいえ、スーツケースを運ぶという行為には普通ではない生活のただならぬ感じが、やはりある。なぜなら普通の人は、わざわざスーツケースを運んだりはしないから。

駅の全ての出口にエレベーターが設置されてはいないので、クソでかく重いそれを私は運んではまだ初夏とさえ呼べない時期に不要な汗をかく。そんな不本意な発汗こそが、家無し宿暮らしを家無し宿暮らしたらしめる。

上記は、記事冒頭に置くべきではないので、このように終盤に置けたことが私としては誇らしい。何かを守った気分になるものだ。Love is everywhere。

左の写真のタイトルは、「厚く垂れ込めた雲の向こう側にも、陽の光」。右の写真のタイトルは、「虹色の舌が吸うは、茶酒のみならず、人の魂」。

本当に酷い写真2枚である。そして、本当に酷い友人に本当に酷い飲みの場であった。その日誕生日を祝った友人のnoteはこちら。僕よりも更新してて偉い。まぁ怒涛の勢いで追い越すけど。彼女とはいつもPayPayでメッセージをしている。取り留めがないどころか、日本語のやり取りとして成立していない可能性すら、真剣に追及できそうなやり取りをしている。

誰しも、駄文を送りつけ合うだけの友人が一人か二人いるのではないだろうか。いつの日かそんなやり取りが安否確認として美化される日が来ることを願って、私たちは今日もドラマのない日々を歩む。

NBAのプレーオフシーズンも現在終盤。しかし、4月の下旬においては試合数が多いし、試合の始まる時間も日本時間の深夜だしで、なかなか生活リズムを狂わされた。

私は妙な顔文字を使って、深夜テンションを引きずったまま出勤していることを暗に示したが、もちろん意図的なものだ。いくらNBAの試合を観るために睡眠時間が4時間未満だったとはいえ、満員の山手線に乗ったら気は引き締まる。

いつからこのようにサラリーマン的な流れに身を任せ、しっとりとやっていけるようになったのか。私がサラリーマン的な生活を送っていることは不可思議かもしれないが、残念ながらその不可思議さは私がここまで生き永らえた不可思議さとほとんど程度が変わらない。そもそも生き永らえることは変化することなのだから、私にだってサラリーマンだろうが池の鯉だろうが、なりたくもないものにさえなる権利がある。

「家無し宿暮らし」を家無し宿暮らしたらしめているっぽいもので、家無し宿暮らしは形成されている。つまりそれは、スーツケースであり、コインランドリーだ。

コインランドリーに関する投稿を、上記のように一日一投稿とは別に行うことで、「やってますよ感」を出している。コインランドリーを日常使いしている俺って、どう考えても放浪の民でしょ感。

恋人宅に長期宿泊し始めてからも、私はコインランドリーを利用している。理由は単純で、恋人宅に私の衣類を干す環境がないからだ。衣類が心地よく乾かないことに人間らしい生活というのは営めないもので(妙に聞こえるだろうか、家のない私も家のあるあなたも、結局は人間らしい生活を送りたがっている)、私はコインランドリーに毎週2〜3回ペースで通っている。その度に自撮りをしているのだが、こんな調子である。

乾燥機の中を覗くといつだってどこかとんでもない世界に行けそうな気がするから不思議なものだ

やはり自撮りというのは私も含めた大抵の価値のない(自撮りのね)人間にとっては、シチュエーションを選ぶに限る。あまりコインランドリーで自撮りを撮る人間はいないだろうから、撮った。悦に入った。しかし、これが流行りでもしようものなら、私は本記からこの写真を削除しないといけない。恥ずかしさで顔から火が出そうな状態の中焦っているそんな時の顔こそ自撮りに収めるべきなのかもしれないが、あいにくその時はデリートキーを押すために塞がっているというわけで、人生はなかなかうまくいかないが、それをバランスと呼ぶ人もいるのかもしれない。

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今回の記事を仕上げるのに一ヶ月を要した。そのせいか内容に一貫性がないように感じられると思う。もちろん、これまで一貫性に重きを置いたことはないし、なんなら文章においては意図的な急転換だって行われ得るわけだが、あなたはそのような文章に出会した時その意図を感じてニヤけることができるだろう。しかし今回の記録はそのようにニヤけるポイントさえない。各Tweetに対する考察を、一ヶ月におよび途切れ途切れに記しているだけなので、まずテンション的な差異があまりにも激しいことと思う。オフロードを走るような感覚で楽しんでいただけたら幸いである。

本記では、家無し宿暮らしを始めてからの記録を1週間ごとに切り取って1記事としているのだが、正直執筆をサボりすぎたせいで、今回の7日間の切り取り方が合っているのかも分からない。

つまり、過去に書いた記事と、今回書いた記事の間には、期間があるわけで、その期間がちゃんと7で割り切れるのかと、そういう問題である。

しかし、数字が数字で割り切れるかどうかは数字同士の兼ね合いで決まるが、人生とは割り切るしかないものである。割り切れないなら、演算のルールから変えるしかない。

つまるところ生きるしかない。残念ながら死以上の大正解はないのだが、死ねない上に生きている者にしか書いたり読んだりできないのだから、本記を記す上での前提として生き続けるしかない。ということは、何かをするためには生きるしかない。こうして「生きるために何かをするだけではない」という考え方が生まれたことで、少し楽になれているのかもしれない。無論、楽であろうと楽でなかろうと、生きていく他ない。

我々は状況の産物でしかないので、私は「家無し宿暮らし」の執筆を3ヶ月以上も怠ったことを、自分のせいにはしない。そして、家無し宿暮らしの様相ではなくなっていることも、自分のせいにしない。

しかし、価値のある記録を提供するための努力を怠っていたわけではない。つまりこの3ヶ月は本業に専念したことで、長期的に見たら面白い人生になり面白い記録になる予定なのだ。多分だけど、請け負う。

私は、安易に記録したりしない(これは更新頻度が高くなりすぎないよう注意する、という意味ではない)。記録するよりも大事なことがあったら、そちらを圧倒的に優先するし、ちゃんと忙しかったのだと言い訳をする。

忙しかったのだ。疲れていたのだ。
しかし以前よりは疲れていない。
そして人生は上向いているはずだ。

今後も書く頻度が上がる保証はない。しかし、価値のある記録を提供するという望みは、私の心の奥底から自然発生しているものだと、私が真に成し遂げようとしている務めであると、理解してほしい。

あなたの人生は、私の記録を読んで豊かになるかどうかに定められてはいない。私の記録を読むこと以外にも豊かになる方法があるだとか、私の記録を読むことでしかなれない豊かさの側面があるだとか、そういうこと以前にあなたの人生は豊かになる必要もなく進行していく。

あなたの人生はあなたの所有物だが、使い古された雑巾のようだとしてあなたのせいでなく、宝石のように光り輝くとしてあなたのおかげではない。さようなら。



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