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テキストやインフルエンサーから対応を学ぶということ

 こんにちは。さとうさです。極度の暑がりの私にとって、ようやく外に出やすくなったものの、逆に商業施設の冷房を全て切られたことにしんどさを感じています。

 さて、今日はタイトルの内容。先日、とある方が「介護系インフルエンサーのイケてないところはそこに『葛藤がない』ところである」と書いていてとても共感しました。

 本当にそうだな、と。
 ドヤ顔で破壊してみたり、ドヤ顔で自分が悪いと思うものをゼロにしてみたり…まあ介護系だったりはおかしいと思われて叩かれてるからそれでもまだいいんですよ。私の中では。実際に周りにいるひとはたまったもんじゃないと思いますけど。
 
 でもね、経験も豊富で、確かに言ってることは多くの臨床家からも共感を得られて、自分の明日からの実践の中で真似したくなるインフルエンサー的臨床家ってのがちょこちょこ存在するわけです。
 自験例で一回でなくそういう人を真似しているなーと経験しているのは精神科看護ですね。もう誰の何の本を読んで影響を受けているかまで知っている(笑)以下、言い方が至極えらそうになるの自覚してるけど、許してくださいね(;^ω^)
 看護師は国家資格なので、もちろん看護学は学んできているし、そういった意味では「私、健常の子を二人子育てしてるから何でもわかるの」「放置して困ったら自分でなんとかするだろ」っていう無勉強のうちのGHの元管理者とは全然違うし、何か学ぼうってのは良いことなんですけど。
 でも、精神科訪問看護の中で、精神科病棟で働いてきた人ってのは少なく、大体算定研修修了組なんですよね。それが悪いこととはいえない。精神科独自の文化に染まっていないというのは別に悪いことでもないし。
 
 ただね、やはり精神科のリアル現場を見てきてない人が、短い言葉を鵜呑みにしてしまうのは大きな問題をはらんでいるのは事実。インフルエンサーが発する、沢山の実践の中から凝縮された一行の言葉は、沢山の実践を積んできた人には同じ重みをもってわかるでしょう。けど、その経験がないまま、その一行を読むと都合よく捻じ曲げられていく。
 例えば、頻回の電話への対応とか自傷行為への対応とかね。確かにテキストで読んだ対応なら間違いないって安心感が医療者・支援者側には生まれるのかもしれない。あと最近は働く側のこころを守るってのがすんごい流行ってるから、つっけんどんがマルみたいなところすらある。けどね、それって患者・利用者側には、私に真正面から向き合ってくれていない、あぁ、この人もそうやって私をカテゴライズしてみるんだなって余計に症状が増悪するだけなんだよね。ある意味精神疾患安定の鍵って安心みたいなところはあるから。

 支援者に自己犠牲払ってほしいなんて微塵も言ってないです。ただ、本来は利用者・患者が良く生きることをお互いに目指していたはずだよね?線を引いて統一した対応をすることばかり意識していたら、絶対にそこは達成できないよ?
 テキストは参考にしつつも、正解は目の前の私たちにしかないし、それは当たり前にひとりひとり違うし、経時的に変わっていくから、そこに体当たりで向き合ってほしい。そして、うまくいかないことを私たちの病気や障害のせいにして自己弁護しないでほしい。

 それは強く思うのです。だってあなた方だって、性別や出身地や学歴や趣味やそういったもので「だからあの人は」なんて言われたら普通にむかつくでしょ?でもね、精神障害となった時点でそれが当たり前に起きるし、当たり前に社会から容認されるんですよ。悲しいよ。

 そんなことを常日頃から思っております。
 いつか「テキストに書いてあってズレて解釈される具体例」「精神科関連関わるなら権利擁護や歴史を良く知ってほしい」「メンタルヘルスってみんな関わるからこそ難しいよね」について書きたいです。サザエさんの予告か?ではまた!

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