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【3分ショートショート】お仕事

 静止軌道ステーションに昇るクライマーのエコノミークラスは、思っていたより狭かった。ここに一週間も閉じ込められるのかと思うと、息が詰まりそうになる。エコノミーというから旅客機のようなものを想像していたが、どちらかといえば映像で見たアマゾン川の内航船といった趣だ。
 乗機時に支給された寝袋のようなハンモック状のテントを設置しようとして手間取っていると、隣から「手伝いましょうか」と声をかけられた。見慣れないロゴマーク入りの作業着を着た男性が、フックに吊られたテントから降りくる。恐縮しながらお願いすると、無駄のない手つきであっという間に設置を終えてしまった。
 ぼくが礼をいうと、男性は「それ」と床のデイパックを指した。「係留しておいた方がいいです。いつの間にかどこかに行ってしまうので」
 そうだった。宇宙と地表を結ぶ宇宙エレベーターでは、上昇とともに重力が弱まり、静止軌道に着くころには無重力になるのだった。そういえば男性の鞄はハンモック用のフックに吊り下げられ、工具箱はカラビナとスリングで厳重に括りつけられている。
「お仕事、ですか」ぼくもデイパックをフックに引っ掛けながら、男性に訊いた。
「すみません。つぎの便で戻らねばならないもので、機内持ち込みに。お邪魔でしたか」
「あ、いえ。そういうわけでは……あの、つぎの便ということは、日帰り出張、ですか」
「ええ」男性はにこやかに頷いた。「泊まると高くつくので」
 高いのは宿泊費に限らない。静止軌道ステーションではすべてが高い。宇宙エレベーターの通貨は独特で、運搬に必要なエネルギーが価値を決める。値札に記された数字が同じでも、価値は高度によって異なり、投入された力学的な仕事の量、つまり位置エネルギーに比例する。たとえば、水のボトル一本の表示価格は地表でも宇宙でも同じだが、その経済的価値はクライマーの上昇とともに上がっていき、最終的には数百倍にもなる。
「太陽や木星には人は住んでいませんからね。地球人が一番損なんです」
 たしかに、静止軌道に運ぶためのエネルギーは、月や小惑星からより地表からの方が大きい。
「だからいつも、買い物は下で済ませるようにしています」と男性は鞄をぽんぽんと叩いた。「あ、でも水は別です。自分が出した分は使用料がかからないので、降りるまでに使い切るのが得策ですよ」
「はあ。それにしても、日帰りというのは……」
「メンテナンス機器の保守点検、なんです」男性は弁明するようにつづけた。「こればかりは未だに人の手が必要なもので」
「メンテナンス、ですか」
「ええ。メンテナンス自体はロボットが自律的にやるんですけどね。そのロボットの整備で要求される精度は、ロボットには出せないんです」
「なるほど、そうなんですね」
 男性は嬉しそうに「手がかかるんですよ」と付け加えた。
「頻度はどのくらいなのですか」
「年間二十五回の契約です」
「え?」ぼくは思わず訊き返した。「年に二十五回、ですか?」
「半月に一度ですね」と男性ははにかんだ。
 海上ターミナルと静止軌道ステーションを往復するだけで二週間かかる。つまりこの男性は、一週間かけて静止軌道に昇り数時間滞在してまた一週間かけて地表に降る、という生活を休みなく繰り返していることになる。
「大変、ですね」
「仕事ですから」と微笑むと男性は「あなたはなぜ静止軌道ステーションに」と尋ねた。
「一応、研究です。一年間の派遣プログラムで向かうところです」
 男性の目がぼくを見つめた。
「一年間、ですか?」
「ええ、まあ」
「……優秀なのですね」
「いえ、ぼくなんてそんな――」
「そうですか」男性は遮るようにつぶやいた。「一年間ですか」
 結局、その男性と話したのはこれきりになった。展望デッキで出発を見届けてから客室に戻ると、男性はもう休んでいるようだった。それから到着まで姿を見かけることはなく、到着時には気がつけば荷物とともに消えていた。
(了)

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