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会いたい人のことを思い、もう会えない人のことを飲み込めずにいる日。

昨日、知人が新型コロナウイルス感染症で亡くなったことを知った。間違いなくこれからやりたいことが、たくさんたくさんあるだろう方だった。パワフルだったし、生命力にもあふれていた。年齢は私とそう変わらない。

私は、この事実をうまく消化できずにいる。

「悲しい」とか「悔しい」とかそういう感情ではなく、「え?」という飲み込めないゴツゴツとした気持ちが喉元に引っかかっている。思えばこれまで私は、人の死をきちんと受け止められたことがない。

いつも「え?」とキョトンとしたまま、時に押し流されてしまう。
みんな、どうやって人の死の受け止め方を学ぶのだろう。大学生の時、友人が亡くなった。大人になったら、誰かの死をきちんと追悼できるようになるものだと思っていた。いい大人になった私は、亡くなった彼女の顔を忘れ、追悼の仕方も覚えられないままだ。

「もう会うことはないんだな」「もう連絡が来ることはないんだな」と、当たり前のことをひとつひとつ自分に確認をした。そうすると、「こんなことを聞いてみたかったな」「どんなことを考えていたのかな」と、尋ねたい気持ちが湧いてきた。でも、もう聞けないんだな、とまた改めて自分に確認をした。

コロナが蔓延しようがしまいが、常に死が私たちの隣にいるということは変わりがない。交通事故だって、突然心臓が止まることだって、ある。80歳以上の人生が全員におとずれるわけではなく。私もあなたも、すべての人がその人生を突然終える可能性がある。

だから、誰かへの思いについては、「いつか」ではなく「いま」しかないのだと思った。

人と会うことができなくなって、逆説的だが、誰と心から会いたいかを真剣に自分に問う時間を得た。自分が心から大切だという人を思い浮かべ、その人とまた会うことができるんだと思ったらそれはまるで奇跡のようなことだと感じた。大切な人たちと話をして、笑いたくなった。生きることに一生懸命に打ち込むということは、何かを成し遂げるということではなく、他者に対する自身のそういう思いを丁寧に掬い上げることなのかもしれない。

(まだ自分の中で形づくられていない感情を書くのは難しかったです。でも、どうしても今の感情を残しておきたいと思いました。もし今大切な人を失って、私の文章で悲しい気持ちになってしまった方がいたら、本当にごめんなさい。これから生きていくのは悪くないなと思えるような文章を一生懸命書いていきたいと思いますので、どうかこのたどたどしい文章を許してください。)

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