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コミュニティと、内輪受けと。

最近、「コミュニティ」についての話題が何かと多い。#オンラインサロン ができて、職場や家庭以外にコミュニティを持つということが一般化してきたことなどがその背景にあるのだろう。
加えて、ひとつの職場だけで一生安泰という社会ではなくなったことで、第3のコミュニティで経験を積み、学ぶ必要が出てきたともいえる。

私自身もたくさんのコミュニティを持っていることで、精神的に安定する。そのため、社会で多様なコミュニティができることはとてもよいことだ、と思っている。
吉藤オリィさんも著書『サイボーグ時代』で語っているが、コミュニティ(居場所)が複数あることで孤独に陥ることを防げる可能性が高まる。

コミュニティが急増する中で、指摘されるようになったのが「内輪ウケ」だ。コミュニティ内での妙な連体感が結果的に排他性につながる。コミュニティの熱が高まれば高まるほど、外野からは冷たい視線が注がれるという構図ができあがってきた。

さらに厄介なことに、ひとつのコミュニティの中でも古参のグループと新参のグループなどで熱量の差が出て、この「内輪ウケ問題」は一層複雑化する。

私は、内輪ウケについて、どこから見るかで見え方が変わるのではないかと思っている。
一概に、「内輪受け=悪」だともいえない。
良い面は、「内輪性」を高めていくことでコミュニティ内の濃密さが醸成されていくことだ。その内部にいる人たちは、どんどんどんどん盛り上がっていく。「ここに真の居場所があったのだ!」と、充足感に包まれる。
だから、生きにくい人たちのよりどころになる可能性があるし、冒頭でも述べたが孤独を忘れ去れる可能性がある。

また、コミュニティ運営者にとっても目的によっては過剰な内輪ウケによってメリットを享受できる可能性がある。あくまで、何を目指すか、によるが。

わかりやすく、あえて極端な例を持ってきてみよう。

以前、西表島に行った時にこんな話を聞いた。
西表島には、その昔炭鉱があり、一攫千金を狙って多くの人たちが島に渡り、深い深い森の中の村にこもった。割のいい賃金が提示され、それを信じて集ったのだ。
実際に、一般的な仕事をするよりも高額な賃金は支払われた。
ただし、支払われたのは通常の貨幣ではない。「その村だけで流通する貨幣」だ。
つまり、一生懸命働いていわゆる「お金持ち」になったとしても、リッチな暮らしができるのはその村においてだけ。仕事に夢中になればなるほど、その村での地位は高まるが、一歩外の世界に出たら一文無し。ある一定の地位を築いたマジメな人たちこそ、その場から離れることが難しくなっていく。

炭鉱主はこの村をつくったことで、逃げ出さない労働力を手に入れることができた。したがって、村の中だけの価値観を築くことで、炭鉱主は大きなメリットを得た。さらに、(ほとんどいなかっただろうとは思うが、)その村に「ずっとい続けたい」という自由を放棄した民たちにとっては、村だけの通貨を得ることで何の問題もない。
コミュニティを永続的に維持させたい人たちにとっては、内輪ウケは究極的な生存戦略といえるのだ。

炭鉱の労働者たちは、まさかそんな目にあうとは思っていないだろうから「内輪ウケ」という悠長な表現はふさわしくないかもしれない。しかし、そのコミュニティだけで通用する価値観が肥大してしまった結果、こうした虚構を築くということを、私たちは覚えておきたい。

今、日本におけるコミュニティは過渡期を迎えている。これから、どのような展開を見せるのか、楽しみだ。淘汰されるコミュニティも出てくるだろうし、真の居場所を提供するコミュニティも登場するだろう。中には、内輪ウケを極めていくコミュニティもあるかもしれない。

繰り返しになるが、コミュニティがたくさんできることで居場所を得る人が増える。だから、多種多様なコミュニティが生まれることは大賛成だ。
しかし、そのひとつひとつが排他性を高めていけば、やさしさから生まれた居場所づくりが結果的に争いの火種になる危険性がある。だから、排他性を内在する内輪ウケの扱いは、ちょっと注意が必要なんじゃないかな、と思う。

私としては、しばらく、いろいろなコミュニティを観察していきたい。このコミュニティ乱立の動きは、現代社会と現代人の心が生んだ鏡のような現象であるように思うから。

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