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「なんで伝わらない?」を東京で、今、考える

「緊急事態宣言」が出される今日、自分の思うことを記していこうと思う。ひきこもりの私は、ここぞとばかりに積ん読をモリモリ読んでいるのだが、『無理の構造ーこの世の理不尽さを可視化するー』(細谷功)は、今の世界に起きていることが可視化されている一冊だと感じた。というか、有事は平時を明らかにするため、日頃のモヤモヤが今回の一件でより目に見える化され、それを解釈するのに本書が役立った。

私は今回の一件で、「なんで伝わらないんだ?」「なぜ危機感は人によってこんなにも違うんだ?」ということが非常に不思議だった。日常通りの生活をしている人に、「本当に大丈夫?」「行動を変えたら?」と伝えたけれど、結果的に動きを変容させるまでには至らなかったというもどかしさも経験した。「なぜ伝わらないのか」、それは私にとっての大きなテーマとなった。

◆「カラオケに行くな」、なぜそんなに具体的に……?

3月30日、小池百合子都知事は、若い世代へ「カラオケやライブハウスに行くな」、中高年へは「接客を伴う飲食店に行くな」と伝えた。私がこの言葉を聞いた時の印象は、「…え? そこまで言わなきゃダメなの?」だ。

「不要不急の外出をやめろ」はこれまでもずっと伝え続けてきた。その状況を知っていれば「ふつう」は行かないよね。ライブハウスもキャバクラも。
でも、この「ふつう」が落とし穴なのだ。私たちが「ふつうは◯◯だよね〜」という時、自分たちの常識や理解を押し付けているにすぎない。だから、「考えればわかるだろ!」とか「常識だろ!」と声高に叫んでもなんの意味もない。
そこですでに、「ふつう」についてのズレが起きているのだから。

『無理の構造』では、具体と抽象のレベルの問題を挙げている。一文を引用すると、こうだ。

具体レベルは「目に見えるもの」なので誰にでもわかりやすいが、抽象レベルの概念というのは「見える人にしか見えない」ということです。

この話を鑑みると、「カラオケに行くな」は具体的な話になるので、「不要不急の外出を止めろ」では伝わらなかった人々にやっと伝わったことになる。私はちょっと愕然とした。なるほど、伝わらないわけだ。
具体抽象のレベル感が合致していなければ、いくら強めに何度も繰り返しても意図がきちんと伝わることはない。

この具体抽象における捉え方の差は、誰にでも起こりうる。例えば、コロナでいうと「軽症」の捉え方を私は間違えていた。軽症=風邪の症状くらいかと思っていたが(そういう人も多数いるのだろうが)、「軽症だ」と診断された方の手記を読んだらそれはとんでもない思い違いだった。
「39度の熱が1週間続いています」
これで、軽症だというのである。「うそだろ?」と思うくらい、私の思い描く「軽症」ではない。医療関係者からしたら、「ふつうだろ」かもしれないが。具体にすることで見えてくる世界があるのだと理解した。

◆「見えている人」「見えていない人」の壁

もうひとつ。『無理の構造』には、「見えている人(わかっている人)」「見えていない人(わかっていない人)」の間に、大きな壁があると語っている。

どんな分野でも「わかっている人」と「わかっていない人」がいます。そこまでは異論がないと思います。しかし、ここで重視したいのは、「わかっていない人」が大きく二つに分けられるということです。
つまり、自分がわかっていないことを「わかっている人」と、わかっていないことすら「わかっていない人」の二通りです。

本書では、わかっていないけれど自分がわかっていないと理解している人にはタイミングや言い方を変えて伝えようがある。しかし、「わかっている」と思っている人にはどんなにドアを叩こうにも通じないと述べている。
これは私見だが、「わかっている」と思っている(思い込んでいる)人は、年齢も社会的立場も関係なく一定の割合で存在している。そして、それが組織のトップに立ってしまった時には恐ろしいことが起こる。「わかっている」自分を疑わずに、方向性を決めてしまうのだから。しかも、「わかっている」と思っているから、他者の声に耳を傾けることはない。コロナの問題では、それが浮き彫りになっている。

『無理の構造』には、無知には3つの分類があると述べている。
1つ目は、事実の無知。これは簡単に言えば知識がないということからくる無知だ。2つ目は、範囲の無知。素人が本物の良さをあまりわかっていないなどの例がそれに当たる。3つ目は、「判断基準そのもの」の無知だ。「この小説おもしろいよね」と言ってもさっぱりおもしろさが伝わらないというのがこれ。

1番目の事実の無知よりも、3番目の「判断基準の無知」は理解されづらい。今回の件でいうならば見えている側から、「危険なんだ」「世界的危機だ」「ウイルスとの戦争だ」、そう言われてもなかなか伝わらないのはそのためだ。
前述した、具体抽象のレイヤーも合間って、見えている人と見えていない人との壁は想像以上に高くなっている。

◆人の行動は変えられないのか?

では、「見えてない人」の行動は変えられないのか?
『無理の構造』では、そんなことはないと言っている。本書では「教育」について書いていたが、<自由にさせる→やる気ある人に面倒見よくする→全員に強制ルール>、これらを適切に行えば効果がでるという。
ヨーロッパなどにおいてはコロナの蔓延をストップさせるべく「全員に強制ルール」が行われているわけだが、日本は今後どうなっていくのだろう。私としては、一人でも多くの人が「やる気がある人」にいかに変わっていけるかがポイントであるように思う。
そうでなければ、「強制ルール」に移ってしまう。実のところ、私が本当に怖いのは、政府が国民に「強制」することを覚えた国の行く末だ。もしそうなれば、コロナの負の置き土産はあまりに大きなものとなってしまう。
その前に私たちにできることがあるはずだ。

「わかっていないのにわかっているという人」から、「自分はわかっていないとわかっている人」が増えていると信じて、発信を続けていく必要があるのだと思う。具体と抽象、さまざまなレイヤーでの発信が求められる。メディアからも、専門家からも、私たちひとりひとりも、「なんでわからないんだ」と諦めずに伝えていくことが必要だ。

あとは、今回の一件については、わかっているけれどもう不安で(あるいは疲れて)いてもたってもいられなくて、家を飛び出してしまうという人もいるかもしれないなと思う。それについては、本当の強さとはなんだろう?と考えさせられる。これは話が長くなりそうなので、また別途。

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