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「ライターとしては書けない」。感動を削る取材

ライターをしていると忘れられない取材が、いくつかある。
その1つを、ここで書いてみようと思う。
この取材は、私の判断が正しかったかどうか迷い続けているから覚えている…というものだ。

それは、「科学コミュニケーター」と呼ばれる方々を取材する案件だった。
科学コミュニケーターとは、とてもざっくり言うと、「科学」というわかりにくい分野を私のようなど文系人間でも理解できるように、興味深く噛み砕いてくれる仕事だ。専門家と一般人などの対話をサポートする役割といえる。
仕事としては、ファシリテーターをしたり、イベントや科学館の企画を立てたりする。
そして、私は現在の科学コミュニケーターの仕事のやりがいを伝えるという企画の依頼を受けていた。

その中の一取材の思い出。
科学コミュニケーターの仕事内容ややりがいについて尋ねても、明らかに歯切れが悪い。

「人見知りなのかな?」「機嫌が悪いのかな?」「私、なにか粗相をしたかしら?」などと思いながら、なんとか1本記事を書けるくらいの材料は揃ったので、
「ありがとうございました。最後に、追加すべきことや、私が聞き漏らしているようなことがあればお聞かせください」
というと、滔々と語り始めた。

彼は、コミュニケーターという仕事、そして「他者との対話」に対してとても大きな可能性を感じていた。
しかし、現場では深い対話ができるほど、互いに腹を割って話すことはない。それぞれの立場で、必要なことを話す程度だ。

「対話の可能性を感じてコミュニケーターとなったのに…」、そんな葛藤のなかで、「もっとも深く他人と対話できる方法はなにか?」を考えるようになった。

そして、行き着いたのが「小説」という手法。
「小説は、自分でありながら、他者(主人公あるいは著者など)と深く結びつき、対話できるツールです。読みながら他人の気持ちを深く理解できるようになったり、自分自身の想いを整理できたりするものでしょう」
そして、「だから自分は小説家になって対話の輪を広げていきたいと思っているんだ」とも打ち明けてくれた。

私はその彼の発言に衝撃を受けて、感動なのか、反対意見を探しているのかもよくわからない感情が溢れ出てきていたんだけれど、
ふと企画の趣旨を思い出し(ライター脳に切り替わり)、
「私は○○さんのお話にとても感動しています。でも、今回の企画では、おそらく出すことができないと思います」
と気持ちとは異なる言葉を言っていた。

彼は「はい、わかっています」とだけ返事をした。

本来であれば、一番感動した話を記事の中心に置きたいもの。
でも、明らかに企画の趣旨と反するため、ライターとしてこの話は書くことができなかった。

イイ話を聞けた帰り道は、いつも少し足取りが軽いのに、
この日の帰り道は、これまでにない切ない気持ちになった。
取材対象者のことを一番表現できる部分を削ぎ落とす経験で、ライターとして私はなにを学ぶのだろうか。

いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。