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康子の憂鬱

 掃除機のボタンを親指で押さえつけ、コードが巻き取られていくのを睨んでいた西村康子は、書斎からの呼び声を聞き、親指にさらに力を入れた。棚の上の方にある本を取れだとか、どうせそんな用事だろう。掃除機を片付け、雑巾を洗い、手に保湿クリームを塗り、ダイエットサプリを紹介する五分の通販番組を見てから、ようやく書斎へ向かう。
 いつもならすぐに二度目の呼び声がある。それがないということは、自分で解決して下さったのだろう。今さら康子が書斎に行くことにしたのは、朝食のトレイと食器を片付けていないことを思い出したからだった。
 書斎のドアを叩く。いつもの「どうぞ」という不機嫌な声は聞こえない。もっと強くドアを叩き、「入りますよ」と呼びかけても返事は無い。寝てしまったのか。会話をしなくてすむからラッキーだと思いながらドアを開けた康子は予想外の光景を目にした。
 西村高雄が二人、床に仰向けに倒れ、血を流していた。
 右肩、心臓、腹。二つの体の同じ場所に傷がある。刃物で刺されたらしい。服やカーペットは黒っぽい血で汚れている。ベッド脇に置かれた灰皿の吸い殻にはまだ熱があるように見えるけど、四つの目はすべて虚ろに開かれ、瞬きしない。どちらも死んでいるようだ。
 康子が二時間前に朝食を運んだ時は、高雄は一人で、生きていた。机の上には空の食器が乗ったトレイが一つだけある。朝食の時は一人だったのか。一人分の食事を二人で食べたのか。どちらにせよ、食べ終わってから殺されたらしい。
 高雄に早く死んでほしいと思っていた康子だが、わざわざ二人になって死ななくてもいいのにと恨んだ。最後まで面倒な老人だ。葬式は一度でいいのか。棺桶は二基必要になるだろう。骨壺も二個必要か。骨が細かく砕けてしまえば一つに押し込めるかもしれない。とにかく、手間も費用も余計にかかる。康子はため息をついた後で、生きたまま二人になるという最悪の事態に比べればマシだと自分を慰めた。
 そうだ、警察を呼ばないと。いや、救急が先か。「義父が二人になって刺されていた」では面倒になりそうなので、「義父が書斎で刺されていた」とだけ伝える。
 連絡を済ませた康子は、誰がどのように高雄を殺したのかという問題に取り組みはじめた。
 一人だけなら不意打ちですむけど、二人なら残った一人は全力で抵抗する。あの人が大人しく殺されるものか。そうか、刺された後で二人になったとしたら。それなら傷が同じ位置にあることにも説明がつく。
 じゃあ殺したのは誰か。部屋に荒らされた跡はないから強盗ではなさそうだ。高雄を恨んでいた人はたくさん思いつく。だけど家にいたのは私だけだ。真っ先に疑われてしまう。勘弁してほしい。この場合は一人殺したことになるのか、二人殺したことになるのか。
 でも、この家は防犯に注意しているわけじゃない。道具があれば誰でも楽に忍び込める。警察だってそのことを考慮に入れてくれるはずだ。そう期待しながらも、康子は殺したのは身内の人間の違いないと確信していた。家の鍵を持っている人間がやったのだとしたら簡単だ。玄関から入り、不意打ちで義父を殺す。犯人は玄関から出て、鍵を閉め、義父は二人になる。さっきは死に際に私を呼んだのかもしれない。そうだとしたら、やはり二人になったのは死んだ後だ。声は一人分しか聞こえなかった。だけど、呼び声が義父をまねた犯人の声だった可能性もある。
 サイレンの音が近づいてきた。先に来たのは救急車のようだ。チャイムが鳴ったので玄関に向かうと、「何するんだ」という声が聞えた。二、三人の救急隊員と、六、七人の茶色い服が争うのが、すりガラス越しにぼんやりと見える。慌ててドアを開けようとしたけど、押し返されてしまった。ドアも誰かに押さえられている。
 外が静かになった。玄関前を茶色い服がうろつくのが見える。救急隊員は負けたらしい。
 疲れを感じた康子は掛川茶を飲んで休むことにした。キッチンで急須にお湯を注いでいると。「こっちに来い」という高圧的な声が家中に響いた。康子はため息をつき、書斎に戻った。死んでいる二人と同じ茶色のセーターを着た高雄がタバコをくわえていた。康子を見るとタバコを靴で踏み消し、「今度はすぐ来たか」と吐き捨てるように言った。机には血だらけの包丁が置いてある。
「どうしてさっきはすぐに来なかったんだ。余計に八人も増やすことになったぞ」
「ご自分が死んでいるのにタバコを買いに行っていたんですか。せめて靴は脱いでくださいよ」
「オレの質問に答えろ」
「そんなことより、その包丁で二人を殺したんですか」
 またサイレンが聞えて来た。今度は警察だ。救急隊員のように大人しくやられはしないだろう。高雄は痰をカーペットに吐き、舌打ちをした。
「もう時間がない」
 高雄は包丁を握り、躊躇せずに腹に突き刺した。チャイムが鳴った。高雄は腹から包丁を抜き、左手に持ちかえ、右肩に突き刺した。
「もう、玄関に、オレはいない。アイツらは、今、橋から、飛び降りる」
 高雄は肩から包丁を抜いた。最後は心臓に突き刺さなければいけないはずだけど、その体力はなさそうだ。倒れている二人は協力して刺し合ったのだろう。
「後は頼む」
 最後まで面倒な老人だと、康子は改めて思った。それでも吸い寄せられるように、康子の手は包丁を高雄の心臓に優しく刺していた。

英語を教えながら小説を書いています/第二回かめさま文学賞受賞/第5回私立古賀裕人文学賞🐸賞/第3回フルオブブックス文学賞エッセイ部門佳作