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僕が薬局の社長になった理由

初めてノートを書くので、とりあえず自己紹介みたいな事から初めてみようと思います。

1.根本にあるもの

昭和53年5月12日生まれ。生まれも育ちも福岡ですが、本籍地は長崎県南島原市になります。島原で生活したことはありませんが、お盆と正月は島原で過ごすのが水田家の行事の一つとなっています。
小さなころは、目がくりっとした子で、とてもかわいかったとか。勉強も運動も中の上くらいの成績でしたが、今思うと、とにかく認められたかったようで、幼稚園のお遊戯会では主役、小学校の運動会では応援団長、高校の体育祭では応援副団長、高校のバスケ部ではキャプテンをやったりしていました。
特に、すぐれた能力があったわけではないですが、認められるように要領良く掴み取ったものだったと、今になってみると思います。
そして、今も承認欲求は強く要領はいいと思います。
ちなみに一番モテたのは小学校5年生の時で、クラスの女子全員からバレンタインをもらいました。すごいでしょ!?でも、社長の息子だったので、お返し目当てだったんだと後で知らされました。つまり勘違いでした。

2.「新生堂薬局」誕生

そんな私は、昨年、父が経営している薬局の後を継ぎましたが、その前に、なぜ父が薬局を創業したのかを説明します。
私の父は、島原で育ちました。その父の育った家は薬屋でした。
薬屋をやっていたのは祖母。祖母は、今年の6月20日、享年92歳で他界しましたが、当時電報の配達をやっていた祖父が、ある時祖母に命じて、薬屋を始めさせたのです。
まず、祖父が薬屋をやろうと思ったのは、電報の配達している時に隣街で薬屋が繁盛しているのを見たから。このまちには薬屋がない。きっと薬屋をやったら街の人に喜ばれる。そう思った祖父は、なんと自分で薬屋をするのではなく、祖母に薬屋をやることを命じます。
そして、驚くのは祖母がやると返事をしたこと。その祖母の当時の職業は薬とは全く無縁の農業でした。そうです、まったく無知の状態から、薬種商の資格を取得し、薬店を開局させたのです。(この涙ぐましい詳しい話はまた今度。)
そして、いよいよ薬屋の開店。この町に新しく生まれた薬店だから「新生堂」と名付けたとのこと。いい名前をつけてくれたと感謝しています。しかし、実は誰が名付けたのかわかったのかは最近のことで、祖母に聞いても知らないと言われ続けていました。祖母が知らないと言っているのを隣で見ていた祖父。数年前に直接祖父に聞いたら「俺が名づけた」と教えてくれました。なんで、祖母に聞いている時に教えてくれなかったのか。。。
そうやって生まれた新生堂薬品。薬屋のレジの後にリビングや台所があるという、いわゆる昔の商店。父は当時小学生で、祖母が薬屋をやっている姿を見ていたそうです。そうやって島原で育った父は、島原の高校を卒業後、福岡の大学の薬学部に進学します。薬学部に進んでいたのは、やはり祖母が薬屋をやっていたのが影響したそうです。
大学卒業後、製薬メーカーのMRとして病院を周りながら、営業をしていた父。その時の武勇伝もいろいろ聞きましたが、ここでは本人の許可なくかけません。
そんな父に、あるとき転勤の話が舞い込みます。転勤先は大阪で出世が約束されたエリートコース。当時独身だった父は、当然転勤を考えます。そして、そのことを自分を可愛がってくれている病院の先生に相談します。そこで先生と先生の奥様からの出た声は、「転勤せずにうちの医院の前で薬局をやらないか?これからは医薬分業の時代だ。」迷った父は、祖母の姿を思い出します。いつも笑顔でお客さまと話をしていた祖母。それを思い出した父は、俺がやりたいのはこれだったんじゃいのか?と気づきます。そして転勤を断り、調剤薬局を開局ます。しかし、ここでおろどくべき判断をしています。薬局に立つことはなくMRをしながら知人を薬剤師として雇ったのです。そうやって昭和53年11月1日に、福岡に新たに誕生した新生堂薬局。あれ?ここで不思議な違和感を感じます。なぜ祖母が薬局の社長なのに、自分で独立してやっているのか?理由を父に聞きました。驚く返事が帰ってきます。「理由はない。なんとなく。後継ぐ気もなかったから。」さすが父。。。ちなみに私が生まれたのは昭和53年5月。同じ年齢であることにやはり運命を感じずにはいられません。
そんな父に、「なんで新生堂薬局ってつけたのですか?」って聞いてみました。すると驚く返事が。「理由はない。島原が新生堂やけん。」さすが父です。。。
そうやって薬局をスタートした父ですが、当時薬剤師としてお店に入っていなかった為、ある選択をします。多店舗展開です。1店舗目がうまく行った父は、店舗の拡大に走ります。調剤薬局チェーンとしては、日本の中でもかなり早い判断をしたのが父でした。
そして、昭和59年3月14日、株式会社新生堂薬局設立。私が驚いたのは3月14日という日付。わたしの名前が「さとし」ですから、それに因んだ日にしたのだ!思ったのですが、さすが父、それは違ってて、ただの偶然だとのことでした。。。

でも、偶然じゃなくそうであると歴史を塗り替え、これからこのように語り継いでいこうと思っています。

3.私が社長になった訳

そんな父が経営する新生堂薬局。
私が社長になった訳は1つしかありません。
小学校2年生の文集にそう書いているから。

                            水田 さとし
ぼくは、けん道のせんしゅになりかかったけど、おとうさんがやっきょくの社長だから、ぼくも、やっきょくの社長になりたいです。2の1のみんなのびょう気をなおすくすりを作りたいです。
みんな、やっきょくにきてくださいね。

この文集の30年後。
私は社長になりました。
一度も他の道を歩もうと思ったことはありません。「やっきょくの社長になりたい」それだけでした。その為に、中学校受験をし、高校の成績で評定平均4.9の成績を取り、推薦で薬学部に入学し、ドラッグストアに入社し、帝王学を学び、、、すべてがその為だけでした。
しかし、社長になる日が近づくにつれて、思いは少しづつ変わってきました。社長になりたいのではなく、
人々をhealthy&happyにしたい。
そう思うようになったのです。
その為であれば、薬局にはこだわらない。そうやって、この10年で調剤薬局とドラッグストアの事業をから拡大し10個の事業をやっています。
かつて新く生まれたから新生堂薬局と名づけられたように、
これからは
「新しいことを生みだす薬局」でありたい。
その為に、人々を知り、人々が笑顔になってくれることを考える。
この人々の中には、様々な人々が含まれます。
お客様、患者様、社員、社員の家族、取引先様、家族、友人、、、
私の周りにいる人をhealthy&happyにすることで、そのhealthy&happyが連鎖し、健康にくらせる街を作ることが私の思いです。
それが今は福岡と熊本と長崎でやっている訳ですが、求められたり、やりたくなったりしたら、エリアを拡大してもいいかな?って思っています。

4.水田さとし少年の夢

私は社長になり。水田さとし少年の夢は叶いました。でもまだ、少年の夢はもう一つ残っているようです。

みんなのびょう気をなおすくすりを作りたい

薬を作る。いつか薬を作ってみたい。
実はそんなことも考えています。

5.初noteの感想

振り返りながら、とりあえずざっと書いてみましたが、祖父、祖母、父、そして私の教育をしてくれた母、応援してくれた姉、親戚のみんな。
そしていつも周りで支えてくれる社員と社員の家族の皆さん、お客様と患者様と地域の皆さん、友人、先輩など、周りの方々への感謝しかありません。

そのような方たちに支えられて、今幸せな生活が送ることができているように、未来の子供たちに、幸せな世界を残せるよう頑張りたいと思います。

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