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セントマの先生

傍若無人



僕らは採点をしている。大学の採点だ。 僕は講師なのか、助手?補助?なのか。 あのおかっぱのセントマ―チンズ(CSM)のファッシオン科総合コースディレクターが採点用紙をにらんでいる。
 
僕の隣の日本人の女性がいる。 日本語で書いた文章、提出物が僕は面倒で彼女に渡して、英訳してもらう。 ディレクター(Nと呼ぼう)Nはコムでギャルソンの影響なのか、川久保玲とおなじような髪型をしている。 
 
彼女がなにかしら支持を僕に出して、日本語がわかっているようなきがして、ちゃちゃをいれると、苦笑いして、
 
「わからないわよ」
 
といわれた。
 
面接をすごい速さでおこなう。 多くの日本人女性は自分の結果についてなのか、Nの気迫か、人生の苦しみか、大学の生活についてか、涙ぐむ人がおおかった。
 
そしてこのとてもえらそうなNはPTSDと思いっきり用紙に殴り書く。 ときにはおちついて、PTSDやら、精神異常、ADHDみたいなことを書いている。
 
僕はぞっとした。
 
涙をながさない人、ぼくも含め(なぜか僕も面接をした)、かろうじて、精神異常者や世の中一般でいう「欠陥人間」とレッテルを張られるずにすんだ。
 
しかし涙を流しただけで、ぼくらは「普通の人間ではない」とされてしまうのだろうか。
 
いったいこの、「涙を流す人」と「涙を流さない人」の違いはなにか?
 
ぼくはくるしくなり、泣きたくなってきた。
 
現実: この先生になんどかどなられたことがあった。 彼女の娘はバーバリーのパターンナーをしていたひとで、とてもきれいな人だった。 コースではだれしもが彼女をおそれていて、つねに独断と偏見で彼女は僕らの作品を評価していった。 彼女がもっともらしいことを言っていた時はみていない。
 
すべての僕らの作品はあるていど彼女の趣味に従うように作られているような気もした。
 
分析:自分の中で恐怖心がある。 上からさからえないなにか。 それは社会かもしれない。彼女とは親しくなかった。つねにびくびくしながら話をしていた。今思えばみんなそうだったのだろう。 トップの生徒になるために、みんな顔色をうかがって、ごまをすっていた。
そんな状況にもなれば、独裁者のように先生も変化していくのだろう。
しかしこの先生とはもう二度と会わないし、他界している可能性もある。ちなみにNという名前は名前すら思えだせないから描いただけでInitialではない。 
わたしたちは常に恐怖の中で生きている。
 
人に嫌われるのではないか? いつ死んでしまうのか? 認められないのではないか?
 
わたしたちが孤島にすんでいて、自給自足していたら、そんな恐怖はやってくるのだろうか?
 
死の恐怖はあるだろう。でもその死の恐怖すら社会からの抑圧が無ければなくなるのかもしれない。
 
昨日友達Mと、「タイムリミット」についてはなしていた。
 
このままなにもしないでぼーっといきていたら、したいことができず死んでしまう。
 
と言っている。
 
涙をしただけで変人扱いされる世の中ななりそうな恐怖も僕の中であるのかもしれない。
 
最近涙する人を立て続けにみている。

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