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自由律俳句鑑賞「海紅」10月号より   

この鑑賞文は、自由律俳句誌「海紅」2023年10月号に掲載された句評に加筆・修正を加えたものです。10月号には、およそ二か月前の8月ごろに詠まれ投稿された句が掲載されていることになります。

他のジャンルの短詩系文学作品と同様に、自由律俳句の読みの余白も広いので、様々な読み筋(解釈・アプローチ)が成り立ちます。
もし、この鑑賞文を読んで、自分ならこの句はこういうふうに読む!というような、自由律俳句の読みに興味のある方への「たたき台」になったら嬉しいです。

色なき風飛ばされやすいと思わせておく   大川崇譜

「飛ばされやすい」という言い方からこの場合の「色なき風=秋風」はネガティブな圧をもった風ということにも取れます。人付き合いの場や組織の中で時には、生きにくい圧をかけてくる輩と遭遇することもあるわけです。

しかし作中主体はしたたかです。そういう存在に対して「飛ばされやすいと思わせておく」のです。相手は作中主体の掌中でコントロールされています。いざという時に作中主体が本気を出したら、相手を一蹴するかもしれません。

実にしなやかなファイティングスピリット、そして生きる上でうまく障害をかわしたり、すりぬけてゆくための知恵を感じさせる痛快な句です。

「色なき風」と「飛ばされやすい」の間に通常は助詞の「に」を無意識に入れてしまいがちです。散文を書くときは無意識になるほど自然に助詞でつなぐ場面だからです。しかし、掲句はわざと助詞「に」を抜いて、なめらかな言葉の繋げ方をせず、休符のようなアクセントを付けています。
そうして、読者を立ち止まらせる仕掛けをしています。

このようなちょっとした省略にも自由律俳句の技巧が折り込まれているのを掲句に感じるのでした。

夏の雲割りばしまわす 大川崇譜

夏の雲といえば、もくもく真っ白く輝く入道雲を思います。それをワタアメに見立てていると読めます。巨大なワタアメを巨大な割りばしで絡めとるっていうイメージがきます。

句柄が大きいですね~。そしていかにも夏空らしい爽やかさもありますし、寺社の境内や参道の夏祭りの光景まで浮かんできます。

「夏の雲」は自然の事象とかモノとして捉えられます。
「割りばしまわす」は作中主体の雲=モノに対する興趣を表現したパラグラフになります。一切の無駄な言葉を省いた取り合わせのコントラストによって、12音の短律でもポエジーを立ち上がらせていると言えるでしょう。

掲句は自由律俳句として詠まれていますが、現代川柳でいえば、

なつのくも / わりばしまわす 5+7の12音のジュニーク

として読めるでしょう。

因みに、大川崇譜さんはX(旧Twitter)で御藩亭句会 @genuinegohantei のハンドルネームをつかっている作家です。

入道雲が魂と肉体の数が合わないビルディングに写る 大迫秀雪

「入道雲が~ビルディングに写る」という枠に「魂と肉体の数が合わない」という別のパラグラフが組み込まれた、入子形式あるいはフレーム・ワークというテクニックをつかった句と読めます。

写る=雲の影でしょう。雲を時代の様々な変化(経済、LGBTQや各種ハラスメントへの意識の推移など)とも読めます。

ビルディングは人がいないと機能しないので或る意味「組織」の象徴とも捉えられます。結社なども組織=ビルディングなわけです。組織を形づくるのは人。その魂と肉体の数が合わないというのです。これはビルディング=組織に属する人間のリアルな違和感の象徴とも読めます。そして、きちんとメンテされないビルディングは劣化します。違和感をもった人は、魂と肉体がきちんと一致して活動できる場所へと移っていくことでしょう。

雲も雲に伴う影も、魂も肉体も常に変化していくもの。
掲句はそんな感慨を呼び起こします。

バーバーの甲子園の金魚鉢 さいとうこう

掲句は三段切れの句です。三段切れは定型の世界ではタブーとされている構造です。言いたいことがぼやける確率が高い構造だからだそうです。何故三段切れといえるのでしょうか? 掲句中の二つの助詞「の」は文章を通常の散文的に繋げる目的では使われているように読めません。バーバーの甲子園、甲子園の金魚鉢。言葉のつなぎ方に関係性が希薄な印象しか来ません。

理由は「の」のあとに、ある量を伴った情報が折りたたまれていることから来る文脈の断絶(切れ)があるからではないか? この助詞の切れを「の切れ」といって伝統的な技法ですが定型世界でも使用頻度は稀なようです。

加えて二度の「の切れ」使いは 定型界でも更に頻度が低いでしょう。そこに「の切れ」の自由律的な使用をしている斬新さがあります。
バーバーの(テレビに映っている)甲子園の(全国高校野球大会)そして金魚鉢(夏季語)。という、行間ではなく、節の間に折りたたまれた情報を読み取った時に、得も言われぬ音韻の響き、音数律の間合いによるリズム感、音韻+音数律=韻律が作用し、それが俳味(ポエジー)として立ち上がることに気付かされます。

話は逸れますが、金魚鉢=夏季語。だからこの句の甲子園は夏の甲子園。
有季定型俳句の方であればこの読みが自然かもしれませんが、自由律俳人の場合は、季語に拘らないため、金魚鉢に対して歳時記が決めた季語の内容(本意?)に従って「夏」を感じるとは限りません。読者なりに掲句から感じた季節感で詠む場合もあるでしょう。春の甲子園大会と読むこともあるでしょう。しかし、本稿では金魚鉢=夏の読み筋を選択して鑑賞することにします。

金魚鉢を金魚鉢の置かれた昭和な内装のバーバー、店主は高校野球を流している。客である作中主体は床屋さんと高校野球にまつわるあれこれを話す事でしょう。鮮明に映像や音声までもが脳内再生されます。
平明な描写が効いています。

前述を繰り返しますが、掲句は描写のために、二回の「の切れ」による三段切れを取り入れています。作者の言いたい情報を読者に予測させつつ、省略による切れにより情報を隠すという構成が使われている点で技巧的に興味深く、惹かれます。

台風二つつられてシオカラトンボまで来たぞ 田中耕司(しんじ)

台風とは地球規模の大気の流れだと言えるかもしれません。そんな大きな流れは様々なものを吹き流したり、逆に引き寄せたりします。掲句は続けざまの台風が秋を引き寄せたという実感を詠んでいます。

実感を象徴する生き物がシオカラトンボです。見るものにトンボほど大気を感じさせる存在はないなぁと思わされます。そして、台風という極大の大気の自然現象とシオカラトンボというちいさな生き物との対比によって、より秋の実感を浮き彫りにしています。

さりげなく、あざとくないように句の技が盛り込まれています。結社の中で田中耕司さんは口語の中でも特に会話体の使い方に特徴があることで知られた作者です。実感を「まで来たぞ」という活き活きとした口語で描く手法はまさに田中耕司さんの独断場でしょう。

雲の力瘤せいろ蕎麦大盛にする 平林吉明

出だしで名詞が二つ重ねられています。力瘤とせいろ蕎麦。切れ字を使わなくても、句の文脈の中で意図した部分で名詞を二つ重ねると自動的に切れを発生させることができるのです。

作者は名詞の重ねによる切れを利用して「雲の力瘤」=大きいモノと「せいろ蕎麦大盛にする」=小さいモノの取り合わせの構造にして、詩情を醸し出しています。

力瘤がとても素敵な表現だとおもいます。入道雲といわなくても夏の季節感や爽やかさがきます。それは、暑い時期に食べたくなるせいろ蕎麦とも響き合っているからでしょう。

生活者の生の実感が詩情として息づいている取り合わせだからこそ響き合うのでしょう。「大盛にする」に、暑さに負けない前向きな気持ちも伝わり心持がよい句だなぁと思います。

夏の陽の斜めを感じ秋じゃが植える     森 命(みこと)

「斜め」をどう読むかが句のキモかと。この斜めは単に夏の陽光が暮れかかっているだけではなく、夏の陽=夏そのもの、の斜陽・夏が弱まっていることをも強く感じさせます。

「秋じゃが」という季節感のある語があるのだから「夏の」をとって「陽の斜めを感じ」からはじまってもよいのでは?と一瞬思うのですが、それでは単純に夕暮れ時と読まれてしまう可能性が残ります。

複数ある読み筋の中で、作者が意図して夏の陽と秋じゃがを詠み込んでいるという読み筋のほうが、詩情の奥行きや立体感が増すと思うのです。

強いて自分の好みを言えば、ちょっと一般の人(俳句にそんなに関心がない人)には読み取りにくくなるでしょうが、「を感じ」を省いて

夏の陽の斜め秋じゃが植える 

とすると、さらに言いたい情報が折りたたまれて隠されることにより、詩の余白が広がるのでは?とおもいます。
ただ、このへんはあくまでも作者の好みなのであって、作者の気持ち優先。自分の案は添削ではなく、単なる提案にすぎません。

推しがビン底鏡の夜にあたしはイらない   岩渕幸弘

自分には鑑賞の仕方が難しいと感じますが、その読みの難しさを超えて妙に惹かれる句です。まず音数律ですが、

おしがびんぞこ /  かがみのよるに / あたしはイらない 

7(3+4)/7(4+3)/8(4+4)の22音。奇数・奇数・偶数の構成。
7・7の音数律のリフレインでリズムのドライブ感を出し最後の8音で結語感を出している点、組み立てられた韻律の構成を感じます。

強いて意味性による読み筋を追っていくと、推し=応援している好きな俳優とか、タレント、芸人、アイドル。そんな存在がプライベートではコンタクトレンズを外してビン底の眼鏡をしています。
営業用の容姿とはちがう違和感への反射・連想として次のパラグラフ中に「鏡」の語が繋げられてくるようです。本人の素の姿が映るモノへの連想的繋がりです。

プライベートな時間は夜の、仕事の人と会わない時間帯。その時間帯にファンである「あたし」は「イらない」=要らないという読み筋になります。

イらないの「イ」がわざとカタカナ使いになっているのは、全て平仮名に開いた場合、あたしはいらない=あたし入らない と読まれることを第一義には避けているということでしょう。

逆に、「イらない」という語に読者の意識を足止めさせることによって、裏の意味としての入らないを強烈に意識させることをも目論んでいるかのようです。この辺の、隠したダブルミーニングの演出が巧みだと思います。

以上の読み筋でいくと掲句は、ビン底の推しの人という対象に対する、自分の感慨を述べるという点で

推しがビン底 / 鏡の夜にあたしはイらない 

という二部立ての構造とも取れます。いかにも、放哉・山頭火の自由律俳句からここまで来たかというほど、今の世相を反映させた「現在いま」感あふれる一句として惹かれます。

自由律俳句も海紅だけの場合を見たとしても、大正4年(1915年)創刊ごろの自由律の草創期から109年が経っています。いまだに自由律俳句の入り口となっている山頭火の自由律俳句の層雲への投稿期間も大正2年から昭和15年までです。
草創期、放哉・山頭火の時代以降も自由律俳句なりの技術や知識も蓄積されてきたかわりに、いつまでも草創期や山頭火・放哉の表現形式に頼った、一部の形骸化があることも自覚しなければならない時期に来ているでしょう。

掲句はそういった形骸化感を打ち破る、自由律俳句の現在形の表現のあらわれの一例を指し示していると感じます。

以上長くなりましたが、ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございました ♪ 最後に自分の10月号の句を再掲しておわりますw













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