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自由律俳句鑑賞~「海紅」2023年8月号より

所属する自由律俳句結社「海紅」の句評当番を仰せつかったのでした。
第1233号、2023年8月号に掲載された句評に加筆・修正を加えたものです。
他のジャンルの短詩系文学作品と同様に、自由律俳句の読みの余白も広いので、様々な解釈・アプローチが成り立ちます。もし、この鑑賞文を読んで、自分ならこの句はこういうふうに読む!というふうな、自由律俳句の読みに興味のある方への「たたき台」になったら嬉しいです。

特に、今回は誌面スペースの都合上で書ききれなかった、自分が注目している自由律俳人である岩渕幸弘さんの海紅掲載作品を記事後半でフィーチャーしました。自分は、自由律俳句会「サザンカネット句会」を大川崇譜氏と共同主催しています。

岩渕さんは、これまで尾崎放哉賞に3連続入賞、海紅の他にはサザンカネット句会の月例句会やアンソロジーにも参加してくれている作家です。

サザンカネット句会には、他にも、尾崎放哉賞入賞の若木はるかさん、さいとうこうさん。第四回 円錐新鋭作品賞受賞の来栖啓斗さん。それから自由律俳句から現在は短歌へシフトした平安まだらさん(第51回全国短歌大会 大会賞 / 第66回短歌研究新人賞受賞)らが参加してくれています。
また賞をとっていなくても(賞への参加をしない作家にも)素敵な句を連発するメンバーが沢山いるのですが、今回は岩渕さん作品の鑑賞を通して「自由律俳句の読み」へのヒントを探っていきたいと思います。

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不知火とデコポンおなじなんて犯人わかるわけないわよね 大川崇譜

同じ品種だなんて?わかるわけない、の文脈の真ん中に突然「犯人」。
どう読む?例えば九州の豪華列車ななつ星。
S車両に不知火氏、D車両はデコポン氏。犯人として浮かぶが崩れないアリバイ。ところが実は両氏が同一人物と判明。アリバイは崩れ殺人犯とわかる。蜜柑の品種の話が「犯人」一語で事件性を帯び、浅見光彦的なミステリー感へ。劇的な構成だ。句の奥行きや面白さも倍増。口語による、驚きの瑞々しい響きも計算されている。

花の雨ふたりふかく傘をさす 平林吉明

花hana、雨ame、傘kasa、さすsasuのA母音の韻揃え、ふfuたり、ふfuかくkuのU母音の韻揃えで句に韻律の背骨が。花の雨、ふたり、傘をさすは全て実景部分。「ふかく」のみ作者の感性が強く出る語。例えば浅く、低く、短く、近くなど「文芸上の真」としての実景表現を変えられる部分だからだ。「ふかく」は情緒と韻律両面で考え抜かれた語の斡旋なのがわかる。

石の穏やかな部分に座る 無一

平らな、丸い、なら普通だが「穏やかな」にハッとさせられる。石に穏やかな部分(あるいは表情)があるという発見に撃たれるのだ。穏やかな部分以外は険しい部分であるという、省略された情報を強烈に意識させる仕組みにもなっている。眼が効いた短律である。

躑躅突き進む兵士のごとく 吉川通子

隣国ロシアは戦争し、中国はアジア諸国を併呑・支配しようとしている。日本は防衛の軍拡へ傾いている。作者は四角く刈られた垣根から一糸乱れず咲く躑躅に、軍靴の不穏さを見ている。鋭敏な句である。

春ってちょっと背骨の隙間広がる 若木はるか

「背骨の隙間広がる」はよく持ってきたなと思う。春の浮きあがるような高揚と喜びにぴったりだ。「ってちょっと」の促音便を重ねた口語も前奏としてうまく響いている。

ほら風が散る花びらひかりの湖へ 伊藤三枝

「ほら風が散る」→風が様々な方向へ散って花びらを湖へ運んでいる。「ほら風が」で切って読む→散る花びらをひかりの湖へ運ぶ。風向きが一方向的印象に。切り方で読みが変わる。いずれの読みを採っても、光と風と花びらの景が綺麗。

白線を踏んで車が走ってる 空心菜

普通は白線と中央線の間を走るものだ。掲句の車は白線を踏んだままなのだ。ここに、鋭く繊細な神経が捉えた事象、それへの神経の障りと危機感が露出している。いろいろな角度から読める句だが、例えば日本の国情に寄せて読めば、今の日本の政治経済状況はハンドルを切ることもままならず白線を踏んだままアクセルを踏むようなものかもしれない。掲句からそのことを痛感させられる。

芽吹きの山に髪ざしつけた山桜 小藪幸子

山桜の花びらは散り、赤い蕊だけがまるでかんざしのように残っている。芽吹きの山だから周りは様々な木々の若葉が萌え始めている。蕊を髪ざしと言い取った見立てが掲句の詩情を立ち上げている。「山に」とあるので、「山桜」といわず桜だけでもよい気がするが「髪ざしつけた山桜」七五の韻律感も捨てがたく、句の質にさほどの障りを感じない。

小さな恋が回るコーヒーカップの甘さひかえめ 岩渕幸弘
潰れたままの蟻をみている /同
傷口に焼肉乗せても傷は治らんQミリ冗句 /同

小さな恋、コーヒーカップ(喫茶店の恋人のカップ、又は遊園地の遊具)でもう十分糖度が高い語や場面。結句で「甘さ控えめ」と糖分調整する点、今の生き難い世相や世代の実態を巧みに映した現実的な引き算のバランス感がある。蟻句、傷口句にも同様に切迫感(ディストピア感)がある。長律を破綻なく結句まで運んでゆく技巧も冴えている。注目している作家の一人だ。

岩渕幸弘さんが前々から持っていた作品のリアリティー、緻密さ、複雑さ、表現の豊かさがますます開いてきている印象。

二月号
朝の色は澄んだいのちの呼吸音
流れ星がたべたかった子の水玉長靴

三月号
余白である私で名のない流星

四月号
レンジに架けるウインナーの哀しみ音階
スマホ画面に、残る、指紋が私の、遺言

二月号作品の真実実感、優しさ心持ちのよさ、美しさ、といった文芸としての真・善・美。
三、四月号の、じぶんの思い(私性)を主体とした作品。経験や現実に即し、意味の伝達性に主意をおいた作品。岩渕さんはもうこういったスタイルの作品は上記句のように自在に詠みこなしている印象。

尾崎放哉賞に3度入選している岩渕さんの作品はエモーショナルでロマンティックながら省略の効いた端正な作風が主流だった。それに比べて、海紅の五月号以降の作品の中に(以前にも散見はされたが)、これまでの作風を脱皮してたとえ難解と言われようとも自分にとっての真実の言葉を作品化しようとする傾向が顕著に現れてきているように受け止めている。

岩渕さんの作風の変化からインスピレーションを受けて自分の中で浮き彫りになってきた自由律俳句の作句態度(アティチュード)とは?
句評から脱線して、個人的な自由律俳句のアティチュードへの最近の独り言的な所感を挟むことをお許しいただきたい。

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意味の伝達性に主意をおいた作品を詠みたい時はそれで良し。
もっと違う傾向や表現領域の作品を詠みたいならそれも良しということ。
これは自由律俳句に限らず、定型俳句、川柳、短歌すべてに当てはまることだと思われる。

現代川柳のレジェンドな柳人に石部明という人がいる。2012年没、それまでは現代川柳の改革を強力に導いて、いまネットでも隆盛してきている現代川柳・ポスト現代川柳のターニングポイントを据えた人物と言える。
句集『石部明の川柳と挑発』新葉館出版2019年12月25日初版のp81~82に、自由律俳句の創作にとっても「持続的な表現革新への挑戦」を鼓舞するようなヒントが書かれている。

すこし乱暴な要約と解釈の追加をすると~「自分におこった事実を書く」ということと「自分にとっての真実を書く」こととは文芸上、次元が違う。そしてとても奥が深く難しいこと。「自分にとっての真実」を書こうとして「自分におこった事実」の報告のみにとどまって満足してしまう作品をみかける。それは勿体ない事。事実を事実として報告するだけではなく、真実としてどう書くか? そこに虚構性というフィルターが用意されていて、対象を経験や体験という事実ではなく、意識下の出来事として捉えることで、あるある的な月並みの事実の報告とそれへの共感をもって良しとする感覚→文芸の形骸化による停滞を破り続けること。破り続ける事によって「きわめて個性的な真実」へと句の内意は研ぎ澄まされてゆく~というような内容。

自分も、文芸上の真実とただの事実説明や報告を混同して詠む人にはなりたくないなぁと思う次第。難しい事だが、自分への戒めとして心得ておきたい。

また、分かり合える句(石部明は幻想だと言っている。『石部明の川柳と挑発』p80)同士での馴れあいを一番大事な共通認識(主目的)であるかのように誘導をする人物がいる場合は気をつけなければいけないと。
うっかりすると、金太郎飴のように平板で表層的な、文芸的に痩せた作品群ばかりを生んで満足する集団に変貌させられてしまう。そんな集団では、作品の多様性と芸術性の共存が妨げられてしまう。自らの事実と思いのみの作品と、その評価のなかにどっぷりつかっていると、創造性のロスにつながる危険性がある。

事実として報告するだけではなく、自らの真実として書くとはどういうことか?そのためには、虚構性というフィルター、例えば、詩的なレトリック(修辞の技術)を用いたさまざまなアプローチも必要と考えられる。それらをもって言葉を繋げ、自らにとっての「真」を捉え、表現するのも大切。
難しいが、これも自分への云い聞かせ要項。

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ここから、岩渕作品への感想に戻る。

三月号
P型の瞳孔に咲く青の絵の具の夜の血液

★一般的な意味性を追わなくても、句全体としてのイメージ喚起力と詩情を感じる。瞳孔、青、夜、血液などのビジュアル性をもった語が選択されて一句中にバランスよく散らされている。同時に、後半の「青の絵の具の夜の血液」の「の」重ねによる韻の揃え、と3+4+3+4の音数が生む律のよさ。韻律の構築によってしっかり韻文としての詩情が立ち上がる。

逃避行機に跨って線路を描く夢のクレヨン

★自由律俳句結社「層雲」系の流れをくむ句会エトレにも出された句。エトレのサイトの句評欄では内容が多すぎで焦点が定まらないというコメントがあったけれど、自分はあまり気にならない。

逃避行+ひこうき(機)のビジュアルと音声をミックスしたダブルミーニング。「跨って線路を描く」+「クレヨン」によってそれが飛行機型の、車輪の付いた遊具と読むことも可能になっている点。句全体が、 自由画帳にこどもの描いた発想制限(概念)がない自由な世界、それに憧れる大人の苦い気分(逃避行)がミックスされていて、詩情に奥行きがあり読みごたえがある。逃避行機に・跨って・線路を描く・夢のクレヨン7577の音数律が26音のボリュームを難なく運んでいるところも巧い。

その他、

四月号
ナイフとフォークで救えないまま泪シロップ葬式の味
友達は無理数で「またいつか」ほどのタイムカプセル

五月号
ぜんぶが僕で皮膚バラバラに咲いた網膜の挙手
生きようかいい今日か勢いか何で感じる缶が西向く

六月号
潰れたままの蟻をみている
傷口に焼肉乗せても傷は治らんQミリ冗句
小さな恋が回るコーヒーカップの甘さひかえめ

七月号
タダラクに息ガできたらストロングと横でパ切る花
墓入り娘の形而上的自己紹介すぐ
海月はうみに溶け消えてゆく波足撫でる死にたくないヨ

すべて、切迫感や現在の世相のディストピア感、脱常識的意味性、虚構性といった手法により濾過された、作者にとっての内的なリアリティーをともなう迫力がある。
表装的で単純な意味の伝達性を捨てて、詩的レトリックを駆使することで、作者自身にとっての「真」が個性となって読み手にきちんと伝わってくる作品。そういったスタイルへの志向が感じられる。

言葉に触発された言葉、その繋がりによって、自分にとっての真を具現する作家は、自由律俳句の世界ではまだまだ少ないように思われるし、認知もされていない印象だ。
作風のベクトルは全く違うが、アティチュードやアプローチとして共通するものを思わせる作家としては、石原とつきさんが思い起こされる。

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唐突に終わりますが、以上、ここまでおつき頂いた読者様に深く感謝いたします♪♪

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