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事故現場について

事故から10年目に書いた記事をもとに、改めて書き直した文章です。

JR福知山線脱線事故の事故現場は、事故直後から電車が激突したマンションの耐震補強工事なども含めて少しずつ姿を変えてきましたが、事故から13年目の2018年に、慰霊碑と事故に関する資料を閲覧できる建物を含む「祈りの杜」が完成しました。

安全対策に関する説明も含めて、事故現場の整備について定期的に説明会があったり、アンケートなどで被害者や周辺住民の方から意見を聞いてJR西日本が調整をしてくれていましたが、この事故の被害者は負傷者と遺族だけでもすごい人数になりますので、事故現場の整備に関しては当初からいろんなお考えの方がおられ、一筋縄ではいかないことは容易に想像ができました。

普通に考えると、「全部残して欲しい」「全部撤去して欲しい」「一部を残して整備する」のいずれかで、結論は前者2つの折衷案である「一部保存」に落ち着くのが妥当なところであり、結果的に、そういうかたちにまとまりました。僕自身はそれほど積極的な案を持っていた訳ではありませんが、JRの担当者はかなり丁寧に聞き取りをしてくれましたし、そのプロセスは間違っていなかったと思っています。

ただ、あの事故現場には最初からかなり違和感がありましたし、今、行ってもそれほど事故を実感できる場所とも思えないのが正直なところです。それはたぶん、まず第一に献花台の場所がそもそも事故とは全然関係ない場所にあって、おそらくそこになったのは、激突した柱とマンション全体を見渡すことができる場所だからというのが理由だと思います。
そしてもうひとつの献花の場所は、1両目が突っ込んだ立体駐車場の穴の前です。このお地蔵さんは、当時、マンションに住んでおられた皆さんがお金を出し合って、設置してくれたもののようです。
事故直後は、1両目の先頭が激突したこの穴の壁に放射状のヒビが入っていましたが、耐震補強工事が行われたのでそれもきれいに補修されています。

僕がいた場所はマンションと線路の間で、2両目が巻き付いていた柱の少し裏側です。よくこんな所で生きていたな…と今でも感じるような場所ですが、いずれの献花台からも見ることはできません。今まで何度かお願いをしてそこに入れて頂いたことがあるのですが、僕にとっての事故現場はあの場所なのです。そこに行くと、当時は鉄板で仕切ってあったのですが、今は金網で仕切られているだけです。金網の向こう側にある線路が目線より少し下ぐらいの高さにあるので、大阪方面に向かってくる電車が通過すると、まさにその電車がこちらに突っ込んでくるような感覚でちょっと怖いです。
でも、死と隣り合わせの感覚がなければ僕にとっては事故現場に行く意味はあまり無く、残念ながら現場に行ってもそのときの光景がよぎったり、悲鳴が聞こえたりはしてきません。残骸も瓦礫も無くきれいになってしまった事故現場で、本当にあの事故がこの場で起きて、目の前でたくさんの人が亡くなっていったという実感が、自分の皮膚の感覚から消え去ろうとしています。
場面としての記憶はずっと残っていますし、「痛い痛い、痛い…」とうめいていた人たちの声は耳に残っていますが、万力でこめかみを締め付けられるような狂気をはらんだ空気は、事故現場でさえ感じられなくなっているのです。
事故の光景を忘れたいなんて一度も思ったことがないのに、あんなに大切だと思っていた記憶なのに、どうしてその感覚がこぼれ落ちて行くのだろう…と思うと、人間はなんて薄情なんだろうと感じます。

事故直後、6月19日の運転再開の日までは、線路の上に板を敷いて献花台が設置されていました。僕にとって、事故現場を一番近くに実感できたのはあのときだけです。それ以降は、何度あの場所に行っても、全然関係ない場所に来たような感覚しかありません。
そして、たくさんの方が亡くなった線路の上を毎日何百本もの電車が行き交い、その上を人が跨ぎ越しているということにとても違和感があります。もし自分の妻が線路の上で亡くなっていたら、やっぱりその上を電車に踏みつけられるのは嫌だろうなと思います。以前、救助にあたった近隣の市場の方にお話を聞かせて頂いたときに、自分が看取った方が横たわっていた場所は、今でも跨がないようにしていると言っておられたのが印象的でした。

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