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第二ペテロ2章6節ー8節     

「心を痛める人」
何が正しく何が間違いか。多様化の名のもとに基準が曖昧になっている社会。しかしペテロははっきりと真理と不義について区別します。聖霊に導かれた言葉である預言と、自家製の我流の預言を振りかざす偽預言を同一視できるはずがないからです。彼らは信仰をもって自由にされたのだから、一切の道徳の規範にとらわれなくて構わないとうそぶきます。主イエスだって取税人や遊女と自由に交わったではないかとさえ言いもしたかもしれません。

確かにどんな罪びとであろうと救いに預かれるというのは間違いではありません。だからといって頂いた救いに胡坐をかいて、救われる以前の悪い生活を開き直って続けるのはおかしいのです。信仰生活とは低きに流れていく生活ではありません。自分が変えられていくことを願いながら、聖さを求めて高みを目指していく歩みへと召されたのです。それを軽視し否定さえする一切の教えはどれだけ耳心地がよかろうと偽預言と言わざるを得ません。

ペテロはロトを引き合いに出すのです。創世記に出てくるアブラハムの甥。彼はここでは義人と紹介されています。彼が住んでいたソドムとゴモラの町の腐敗した悪に日々心痛め悩まされていた面を映し出すのです。彼は決して毅然とした態度ではなかったかもしれない。優柔不断で世俗的面も持ち合わせていた普通の人です。ただ、社会の悪に対してだけは割り切ることなど出来ません。それは不道徳でみだらなことだと分かっていたと言うのです。

今の時代も信仰者に望ましい姿勢は心を痛めていることにあります。悪が幅を利かせる時に慣れっこになるということではないのです。感覚を麻痺させ無関心に陥っている場合ではない。人間だからそれくらい普通だと見過ごすのでもないのです。何よりも神ご自身が善悪の基準に立ち、悪に心痛めて下さいます。それなら神と思いを共有し、ともに嘆く人が求められているわけです。それこそ信仰者がこの社会に置かれた存在意義でしょう。

神は決して善と不義を曖昧にはなさいません。それは栄華を極めた悪徳の町ソドムとゴモラが一瞬にして灰に帰してしまったことからも明らかだとペテロは告げます。悪が悪のまま放置されることはありえない。やがて神の義が貫かれる世界が出現することでしょう。それは最終的には終末の再臨の時でありましょう。再臨を否定するとき、人は神の義を打ち消し、正義の基準をぼやかし、罪の中にとどまることをよしとする生活に傾いていくのです。

しかし、神を信じる者はそういう闇の中にあっても守られ保護されるのです。神の手によって助け出され、救いは完成されることでしょう。いくら多数が不義に流れていこうと、少数者であることに肩身の狭い思いをする必要はありません。むしろ価値あることは少数者から起こり広がるとも言えるのです。やがて神の訪れがあるその時が来るまで、心痛めつつ、祈りつつ、重荷を負って、この福音を証し続ける者でありたいのです。

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