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オウム

地下鉄サリン事件
地下鉄サリン事件が起きた1995年3月。自分はどこで何をしていたか。それぞれの思い出があると思う。わたしは神学校を卒業してようやく1年になろうとする頃で、熊本県の教会にいた。阪神淡路大震災の爪痕がまだ残っていた頃だ。一体、何が起きたかテレビで見ていてもわからなかった。テロ?この日本で?全く現実味が感じられないのに、恐ろしいことが起きたことだけはひしひしと伝わってきた。前年に起きて未解決の謎だらけの松本サリン事件と関係があるのだろうか。

すぐにオウム真理教との関係が疑われて、強制捜査が入った。95年は自分にとって特別な年で5月に結婚式を控えていた。当時、教祖はまだ捕まっておらず、日本中で目撃情報が相次ぎ、社会全体が騒然としていた。教祖はどこだ。一億総推理という感じだった。こんな中で結婚式?結婚式を延期しようかと真剣にふたりで相談した程だった。

オウム事件には遠因があったと思っている。それは70年代のオカルトブーム。わたしもその世代だったのでよくわかるのだが、あの時代のオカルトブームは今考えると異常だった。アメリカのカウンターカルチャーなんかの影響が日本にも押し寄せてきたわけだが、あの頃の空気を吸った若者たちがオウムに引き寄せられた要因はどこかにあったように思う。

宗教リタラシーの問題もあったのだと思う。宗教的知識や教養が一切欠如したような無菌状態のようなところで育つとする。すると怪しげなものを識別する力がなくなってしまう面はある。大切なのは宗教を遠ざけることではなく、宗教に対する正しい理解を持つこと。ある種の神秘に対する憧憬は、良くも悪くも人間にはある。しかし、神秘を遠ざけるだけでは、おそらく問題解決にはならない。

事件が起きたのが戦後50年の年だったのが象徴的だった。戦後日本の矛盾が一気に噴出してしまったような感さえあった。若い世代にとってはリアルタイムでは知らない事件だろうが、決して風化させてはいけない。宗教リテラシーのないところでは、同じような危険はいつだってあり得るのだろうから。

ニューネッシー
時代を遡って象徴的だった出来事をあげてみる。1977年。自分が小学生の時だが今でもはっきり記憶している。新聞の一面に衝撃的な記事が写真入りで、でかでかと掲載された。日本のトロール船、「瑞洋丸」がニュージーランドのクライストチャーチ沖で巨大な未知の生物の腐乱死体を引き揚げたと言うのだ。マスコミが命名して人口に膾炙したニューネッシーという言葉が定着した。

やはりネッシーはいるのか?と子ども心に思ったものだ。結局、ウバザメだったことが判明して拍子抜けすることになるのだが。

時代背景も関係がある。1970年代を生きた方なら記憶にあるはずだ。あの頃、

空前のオカルトブームだった。今なら放送コードに引っ掛かりそうなことがテレビのゴールデンタイムに毎日のように堂々と流していた。ユリゲラーはスプーンを曲げるし、オリバー君は来日するし、甲府の少年は宇宙人と接触するし、日本各地に巨大生物〇〇ッシーは出没するし、広島にはヒバゴンが出現する。やれ超古代文明だ、ノストラダムスだ、バミューダトライアングルだと過熱気味だった。

公害や、オイルショックなどの社会背景からの不安感もあったのだろうが、アメリカのカウンターカルチャーの影響と共振している部分もある。遡ると60年代のヒッピーの運動や、50年代のビートニクと呼ばれる詩人たちも関係ある。しかし、少なくとも自分が物心ついた時にはこれらのものは対抗文化でもなんでもなく、ただ空気のようにそこにある社会に定着したものだった。

振り返ってみると、この手のいかがわしいものをテレビで見続けたことで、食傷気味にもなり、ある程度の免疫がつき、リテラシーができるようになった点は大きいと思う。実際、こういうネタはすぐに陳腐になりパロディー化していった。川口浩探検隊なんかがそうだ。こういうものは一過性であって卒業するものなのだ。

ただし、一部に真剣に信じ込んでしまった層も現実におられ、その中にオウム真理教に入信してしまった方もおられるので深刻だ。過去は現代につながっている。このあたりのことを整理し、検証する必要はあるのではないだろうか。

日本沈没
もうひとつあげておきたい。1973年。ある小説が大ヒットし、その年のうちに映画化もされて、それも大ヒット。小松左京作「日本沈没」だ。当時、小学校にあがる前だったのでリアルタイムでは読んでいない。しかし、我が家にこの小説があったのはなんとなく記憶している。多くの方が読まれたのではないか。一種の思考実験によるディストピア物だが、こういうものが流行する社会背景みたいなものがあったことは確かだ。

子どもの頃、見ていた「ウルトラマンレオ」のスタートが翌年1974年だった。この特撮が「日本沈没」の影響をもろに受けていたのを記憶している。1話、2話が東京が大水害に襲われるストーリー展開だった。前作のウルトラマンタロウの作風に比していやに暗い展開だなと子ども心に思ったものだ。これだって今にして思うと時代性だったのだとわかる。

新海監督の「天気の子」をDVDで見たが、なんとなく既視感があった。「日本沈没」と重なってしまったからだ。いや、全く違いますと言われてしまうと黙るしかないのだが。

同じ年、五島勉という人が「ノストラダムスの大予言」を出版し、これも大ヒット。シリーズ化していく。自分は読んでいないが、本屋に平積みされていたのは覚えているし、周辺に読んでいる者もいた。小学生も読んでいたらしいから、影響は大だ。1999年第七の月という例の予言だ。「日本沈没」と「ノストラダムス」の社会現象ということでなんとなく時代性は伝わると思う。

高度経済成長の終焉。ゼロ成長。列島改造論の下方修正。先行きの見えない不安が社会にはあったことはなんとなく覚えている。しかし、破局など全く来なかった。どうも経済成長路線には強いが、経済が落ちていく中でしっかりと人生観を持てない傾向はどこかにあるのかもしれず、それが結果として厭世観を生むという側面もありそうだ。

知らなかったが、五島勉は函館の出身で祖母と母親がクリスチャン。カトリックでもプロテスタントでもなく正教会だ。ニコライ堂で有名なニコライ宣教師が函館に伝道していた頃、信仰をもったのが五島勉の祖母にあたる人物。ある種、日本のキリスト教の初期の歴史と重なる系譜にいながら、なんでノストラダムスなの?と思うとトホホで、日本宣教の課題みたいなものをつきつけられる。ご本人はクリスチャンではないとは思うのだが。仮にクリスチャンを名乗られてもかえって困惑する。

人間は時代から逃れられない「時代の子」だというのはあるのかもしれない。


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