ヨハネの手紙第一3章5節ー6節
「本来の自分」
ヨハネは罪の問題について語るのです。前回の学んだ通り、罪が深刻な状況をもたらすのですから、私たちも真剣に罪と向かい合わないといけないということになります。なんとかしてこの問題を解決しないといけないのです。ここに朗報があります。神の御子イエス様は罪を取り除くためにこの世においで下さったという事実です。これは洗礼者ヨハネも告白したことです。神の子イエス様には罪がないのです。罪を犯すこともなさらないのです。
私たちが神の子の立場をいただき、キリストに似た者へと変えられていきます。言い換えるならば、罪を犯さないような状態に変えられていく希望が与えられていると言うことなのです。その時に大切なのは御子のうちにいつもいるということです。御子のうちに留まり続けるのです。その時に罪が私たちを支配することなど決してできないのです。罪の力から自由にされるのです。
しかし、こういう問いも生まれてくるのではないでしょうか。キリストを信じているのに、相変わらず罪を犯してしまうみじめな自分は神の子ではないのだろうか。決してそうではありません。私たちは既に神の子なのです。ということは罪を犯してしまう自分とは本来の自分ではないということです。本来の自分とは罪を嘆いている自分なのです。罪を恥じて、罪に対して心痛める姿こそ本来の自分なのです。
本来の自分は神を礼拝する自分です。神に祈る自分です。神の御心を喜び、神の御心に従いたいと願う自分です。イエス様を見つめて歩もうとする気持ちがあるところでは、罪に対してあいまいな態度はとれなくなることでしょう。それだけではありません。罪を犯すことのない自分が必ず現れてきます。そういう約束を頂いているのです。それは今ではないかもしれない。やがて必ず実現する本来の自分が既に芽生え始めていることを感謝するのです。
もちろん、私たちはもはや罪を犯さないと断言できる者はいません。自分に罪がないと言う者は自分を欺いているとある通りです。罪を犯す性質が依然として私たちのうちにあることは確かです。それなら、罪から自由であるために私たちが向かうべきところはどこなのでしょうか。どこに向かえばよく、どこであれば安全なのでしょうか。十字架のキリストのゆるしのもとしかありませんというのが私たちの確信なのです。
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