見出し画像

第二ペテロ1章3節ー4節     

「わたしに与えられているもの」
ペテロは私たちには主イエス様からの力が与えられていると励ましています。どういう力でしょう。信仰に関する力ですから、いのちと敬虔に関することなのです。ここで言ういのちとは永遠のいのちのことです。救いによって頂いた永遠のいのちが最後まで保たれるようにイエス様の力で守られています。永遠のいのちとは神との交わりに生きることですから、交わりの中で祈りが生まれます。敬虔とは神と向かい合う姿勢です。

もちろん人生には厳しい戦いが多いのは確かです。しかし私たちにはその度に神のみ前にひざまずいて、激しく訴えてでも祈り抜く力がもう与えられているのです。感謝なことにそれは将来いつか与えられますというのではありません。あるいは小出しに与えようと言うものでもないのです。すべてのことがすでに与えられているとあるではありませんか。それなら、その力を使おうとしないならもったいない話ではありませんか。

そもそも私たちを救い信仰へと召して下さったのは神様なのです。自分で信仰を持ったわけではありません。そういう私たちが万が一にでも信仰生活の途上でつまづき、信仰の歩みを放棄してしまうとするなら、どうなるのでしょうか。それでは決して神の栄光にも徳にもなりはしない話なのです。神は神御自身の栄光と徳に賭けてでも最後まで私たちの信仰を支え守り抜いて下さると、どこまでも信じていいのです。

だからこそ私たちはくよくよせず、あきらめず、将来に目を向けようではありませんか。やがて私たちは神の御性質に預かる者となる約束を頂いています。もちろん、それは最終的には天国において実現するものではあるのでしょう。しかし私たちが今の生活において目指すべきことがあるのも確かです。こういうすばらしい約束を頂いているわけですから、世にある欲のもたらす滅びから免れることなのです。

勘違いしないでください。人として欲求そのものは決して悪いものではありません。但し、明らかにこのまま進むと滅びへと至る好くない欲望というものが確かに存在するのです。それは相手を傷つけ、悲しませ、人間関係さえ破壊する。しかし、主にはそこから抜け出すことがお出来になります。なぜなら、信仰の成長にまつわるすべての力がもうすでに与えられていると告白されているからです。

それなら誘惑に負けそうになる時こそ祈ればいいのです。助けて下さいと叫べばいいのです。もうだめだなどと諦めてはいけません。自分には無理だと自暴自棄になってもいけません。私たちには主の偉大な力がすでに与えられていることを確かめましょう。与えられている力を意識するなら、今まで困難だったことに対してでさえも突き抜けていけるはずなのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?