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ヨハネの手紙第一3章11節ー12節

「カインとアベル」
神の子とはどのような者でしょうか。それは互いに愛し合うことを求めて生きる者と言っていいでしょう。それは初めから聞いてきた戒めです。時代が変わったからと言って取り下げてもいいという類の戒めではないのです。これからもずっと互いに愛し合う戒めは生き続けるのです。いいや人生には力も必要だろう。成功も必要だろうと、他の何かに目をひかれて、愛し合うことをないがしろにしてはいけないのです。

ここでヨハネは神の子どもとは真逆の価値観に生きる人物に目を向けるのです。創世記に出てくるカインです。彼はたくましくあることを求め自立心旺盛です。獲得するという意味の名です。儚い息のように弱い弟アベルを殺してしまうのです。なぜ神はあんな弱いやつを顧みるのかと納得がいかず、ねたみと嫉妬から手をかけて殺めてしまうのです。憎しみは殺意にまでエスカレートするのです。

今でも起こりそうな話ではありませんか。自分はこういう人生を獲得してきた。ここまで強くなった。どこまでも勢いにのって上昇してきた。それなのに神が目を留めるのはアベルなのです。無価値にも見え、弱弱しく、小さい存在である弟。生存競争にも勝てそうにない者を神はなぜ愛されるのか。カインが憎んでいるのは弟だけではないのです。根底にあるのは神に対する憤りと言ってもいいでしょう。

私たちにも思い当たります。自分だけが損しているように思えてくるのです。貧乏くじをひかされた。なぜ神は祝福して下さらないのか。なぜ神は理不尽なのか。不公平ではないか。自己憐憫の中でそれに比べてあの人はと嫉妬するのです。自分より劣っている相手ではないか。自分より力がないではないか。自分より頼りない存在ではないか。なぜあんな人が。しかし力を求める生き方はどこかで誰かのいのちを奪う生き方を生んでいくのです。

そうであってはいけません。神が愛されるのは弱さなのです。無価値さの中で喘ぐ者なのです。生きる力さえ足りない者なのです。こういう神を信じている以上、価値観は転換されないといけない。間違った価値観はヨハネに言わせれば、悪い行いを生むのです。あの人が祝福されているのをともに喜ぶことはできないでしょうか。嫉妬や妬みや憎しみに身を任せる生き方は神の子の生き方としてふさわしくはないのです。

しかしキリストが臨むとき、不思議なことが起こります。相手へのどろどろした感情が消え、突き抜けていくのです。その闇にとどまることができなくなるのです。むしろ相手を愛せるようになる。大切なのは横にいる相手に目を向けることではない。キリストを仰ぐ。不公平、不条理、理不尽を本音で神に訴えればいい。その時に気づくでしょう。イエス様ほど不条理と理不尽のうちに死んだ方はいないのだと。

この方の十字架の前で、自分は神に顧みられていないと口が裂けても言ってはいけない。救いという最大のものまで頂いて、自分は神に愛されていないとは断じて言えない。だったらわたしも背負ってみせましょう。どんな理不尽も、不公平も、不条理も。自己憐憫はいらない。ただそれを背負って従う。従ったならわかる。信仰とはそういうものなのですから。

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