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エゼキエル書21章13節ー37節

「神が味方ならば」音声はこちらからお聞きになれます。
味方にすると頼りになるが敵に回すと手ごわい人がいるものです。神がまさにそうです。エルサレムは神が自分たちの味方だと信じ込んでいます。しかし、神の手で磨かれ、研がれている剣は、実はエルサレムに向けられているのです。神がエルサレムに敵対しているのです。いいえ、人間の罪がうちにある以上、罪が神と私たちの関係を隔て、神は人の罪と向かい合わざるを得ません。しかも、その剣は二度も三度も繰り返し、振り下ろされるのです。

信仰さえ持てば何をしてもゆるされるのでしょうか。神の愛と恵みに真摯に答えようとせず、従おうとしなくても。神は自分の人生の味方だからと、まるで信仰をなにかの免罪符のように思いこんでいるとしたなら、お粗末な理解です。パウロは言いました。神が味方なら、誰が私たちに敵しえようかと。しかし、それは神が御子を敵として裁かれた尊い犠牲による和解なのだと忘れてはいけない。この愛に心ふるえて、服従することこそが信仰なのです。

しかし、エルサレムは甘く見ています。難攻不落のエルサレムが敗れるはずがないと。神が味方の神の聖なる都なのだからと。敵国バビロンが軍事行動を占おうと、進路をはかる時、聖書の禁じる異教徒の迷信などが当たるわけがないと笑っています。彼らは気づこうともしません。主は異国の習慣さえ用いて、分かれ道で、バビロン軍をエルサレムの方向に導いておられる事実を。バビロンの軍隊を動かしているのは実は主なのだと言う衝撃を。

今もそうです。クリスチャンが特別に信仰熱く、他宗教の方が特に不道徳とは限らない。時には他宗教の方がキリスト者以上に熱心な場合もある。異端やカルトと呼ばれる方のほうが信仰に対して真剣な時さえある。時に神は他宗教の方をも用いて、教会の目を覚ませようという場合もあるのです。迷信だ、間違った教義だ、極端すぎると無視を決め込む前に足元にある自分の信仰の危機を見つめてみたほうがいいかもしれないではありませんか。

アンモン人への神の審判も同じです。エルサレムのゼデキヤ王は、アンモンとエジプトと組んでバビロンに反逆しようとしたからです。しかしその目論見はなりません。主に逆らう計画は成し遂げられるはずがなく、結局は破滅が地を覆うことになります。陰惨な預言ですが、もしもここに望みがあるとするならば、それは主が新しい秩序を地に創造しようと激しく働いておられることにでしょう。そのために古い秩序は崩れていかないといけないのです。

私たちの心の奥深くにも神への反逆心があるようです。神に従うよりも、神に逆らわせようとする力は手ごわい。肉と言ってもいいし、罪と言ってもいい。自分にとって都合のいいことが神に従うことだと誤解してはいけない。自分にとって居心地のいいことが主の御心と思いこんでもいけない。キリストの姿が私たちのうちに形作られる新しい創造がなるために、内なる古きものが破られてもいい。神の国は近づいています。覚悟はできていますか。

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