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心とお金のエトセトラ

このところ「お金」と「心」の関係について延々と考えている。

スクールカウンセラーとしては、やっぱり生徒たちが高校・大学・専門学校などへの「受験」や「進学」をテーマにする時期。

生徒の口から語られるお金の話は、家族について詳細に聴くよりもその関係を描き出しているようだ。

不確かな愛情をお金で計ろうとしては失敗し、

ただ差し出されるお金に「ただ愛をくれ」と叫ぶも届かず、

時には暴力でお金を奪い、

生きるのに必要なお金をも惜しみ、

家族における「お金」は色々な顔を持っていて、生々しく、痛々しい。

瞬間、過去の私が蘇り、痛みを重ねる。

そんな風に「お金」のことをごちゃごちゃ考えていると、シンクロニシティなのか何なのか「お金」のテーマが様々な角度から持ち込まれて、ますます「お金とは何なのか」を考えざるを得なくなった。


私はお金が好きだ。

「お金がない」というのは惨めだ。

私の母は自分を飾り立てることが好きな人だったが、子どもにお金をかけるのが嫌いな人だった。

「学校で購入しなければならないもの」が登場するたびに気分は沈んだ。

なぜ最初から指定してくれないのか。

なぜ子供の口から親に言わせるのか。

今でも親に「〇日までに××が必要だ」という時の緊張感を思うと吐き気がする。

タイミングを外せば、「お前はいつも金のことばかり言う」と責められる。

そして買ってもらえなくなる。

買ってもらえないと学校で惨めな思いをする。

だから決死の覚悟だ。

学校という狭い世界しかない子どもにとっては。

「どうしてみんなお金が普通にあるって思うんだろう」と、いつも不思議だった。

子どもが「必要だ」というものはなかなか買ってくれない母親だったが、母親が必要だと思った「必要のないもの」にはお金をかけるのも実に堪えた。

「こんないらないものにお金使うんなら、あの時の××を買ってくれたらいいのに」といつも思った。

その「必要のないもの」をうまく使いこなせないとひどく不機嫌になるので、大変困った。

そして、「あの時、あれを買ってあげた。これを買ってあげた」「だから親に恩を返すのは当たり前」と、ずっと言われるのだ。

母にとってお金は私をコントロールする力だった。

今だって「お前には遺産をのこさないからな」と脅してコントロールしようとする母である。

「300万円貸してくれ」という話を断った結果、「遺産をのこさない」と言われているので「その遺産(?)を使えば?」と思ってしまって、本当に訳が分からないんだけれども、母はそうすることでしか私をコントロールする術を知らないのだ。

もっと愛情深い関係を築けていたら、私は母に気持ちよく300万円くらい貸せただろうか。

それとも母の言う通り「守銭奴」なのだろうか。

ただ、夫が病気にかかったとして「300万円あれば治ります」と言われたら躊躇いなく出すだろうな…と思うと、結局、お金は心そのものなのかもしれないという気もする。


大学院時代、非常勤でお金を稼いで、一人で長野に旅行した。

関西にはない、そびえたつような鋭い山々を見たとき「お金があれば自由なんだ」と、なぜか強く思った。

高知の足摺岬で海を眺めた時も、「もう誰にも縛られず、こんなところにも来られるんだな」と思った。


お金は私の自由を保証する。

もちろん、お金があれば自由…ではない。

ただ、自由になるための手段として「お金」は有力だ。あまりにも力がありすぎる。

カウンセリングに来られるような人々も、自分を自由にする手段として「お金」を使える層なのだろう。

それだけで、なんだかすごいよなぁ…と思ってしまう。

教育分析で毎回お金を支払うたびに、どこか痛みを感じていた自分を想う。そして、その痛みを感じた時に罪悪感を抱く自分も覚えている。

気持ちよく手離せない「心」に、自分の欲深さと、覚悟のなさと、自分らしさを感じた。思えば、教育分析の50分よりもお会計のその数分が最も「自分」を振り返る瞬間だったかもしれない…とさえ思う。


資本主義社会は「心」をお金に換える社会だ。

顧客心理を掴み、コントロールし、「買いたい」という心を引き出して、お金に換える。

しかし、最も「心」を商売にしているはずの心理士(師)は、心をお金に換えることを最も恐れ、拒んでいる。たぶん嫌悪さえしている人もいる。

クライエントの心を操作するのが怖い。

クライエントの自由意思を尊重したい。

でも、そうこうしているうちに、心をマネタイズする民間カウンセラーにクライエントは心掴まれていく。

そして、心理士(師)は困窮する。

私にもどうすればいいか分からないけれど、もしかすると心が弱っている人にはある程度動線を敷いて、引っ張り込むようなマーケティングスタイルもありなのかもしれない。


かつて私は刑務所でカウンセラーをしていた。

「上から言われて仕方なく」と、動機も何もない人々の集まって行われる「教育」の一部として。

嫌がられて、不平不満をぶつけられて、見下されて、受け流されて。

それでも、回数を重ねるうちに「受けて良かった」「外でもカウンセリング受けたい」と言ってもらえることがある。

一緒に涙を流して、心が通ったと思える瞬間がある。心の底から「幸せになってほしい」と思う。

「私は良いものを提供できる」と自信を持てるなら、多少無理やりでも「出会う」動線を準備するのが必要なのかもしれない。

「相談したい」という気持ちだけに動機を見出すのは、心理士(師)の甘えなのかもしれない。

堂々と、お互いにwin-winな形で、心をお金に換えたい。

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