1人旅 3日目 

 昨晩は、知らない老夫婦のお家に泊まらせてもらいました。

 朝の犬の散歩についていって、浜辺を見に行きたいとせがみました。6時半に一緒に行こうな、と言ってくれたのに、わたしが2分遅刻したら、普通に置いていかれました。
 あわてて玄関を飛び出すと、おばあちゃんが犬にリードをつけているところでした。ほんとに起きられたんか、よかったな、と笑っていました。

 おばあちゃんは、わたしを本当の孫のように扱ってくれるので、わたしが道端の草や建物にいちいち足を留めていると、普通に置いていこうとします。その町には海に向かう大きな道しかないから、迷わないでしょうと言われたけれど、どのおうちもおんなじくらい立派なので、わたしにはまるで見分けが付きません。
 集落が成立したのが割と最近のことだそうで、どの建物も大体同じタイミングで建てられたから、みんな同じ方向を向いているそうです。ますます見分けが付きません。

 お利口な犬と聞いていました。めったに吠えないとのことですが、私が散歩についていこうとすると、町中に響き渡る声で叫びました。
 邪魔者じゃないよ、海を見たいだけだよ、と説明すると、じゃあくれば、という感じで、おしりをふりふり歩き出しました。
 年齢を聞くと、中年男性とのことでした。私は甘え上手で愛嬌があるから、年上キラーのはずなのにな。見れば見るほど、後ろ姿がちゃんとおじさんに見えてくるのが不思議です。

 お目当ての浜辺につきました。
 昨晩吹いた風の跡が筋になって残っています。まだ人の足跡はなく、登り始めた朝日の赤い光の中、鳶が何匹も歩いていました。

 何も支度をせず、ただ海が見たい一心で部屋を飛び出してきたので、とても出発できる状態ではありません。部屋にもどって、急いで荷物をまとめていると、リビングから声がしました。きりのいいところで降りていくと、昨日のカニ鍋の残りで雑炊を作ってくれたというのです。
 わたしの席の向かい側におじいちゃんが座って、大学の話やこのあたりの有名な版画家の話、おじいちゃんもこれから中東へ一人旅に行く話などをしました。途中で、手作りのマーマレードを一口なめさせてくれたりもしました。

 私を駅まで車で送ってくれるというので、ありがたく乗せてもらいました。
 山と海の境目を縫いつけるように、緩やかなカーブを描いて道路が敷かれています。
 
 駅について、さみしくて何度も振り返ると、おじいちゃんは大きく手を降ってくれていました。

 次の目的地までは、電車で2時間かかりました。だからそこそこ遠いんだと思っていたのですが、駅につくたびに15分以上停車しているせいだと分かりました。時間がかかることと、遠いことはイコールにならないのだと気づきました。

 日本美術のコレクションを見に行きました。
 焼き物のお皿が5枚1組で並んでいました。手で形を作り、絵をつけたものだから、1枚ずつ微妙に表情が違っています。カニの絵が描いてあるから、カニのお皿、という意味では全部一緒で、そして同じような5枚並ぶことでリズムが生まれます。しかし厳密には同じものではない。足が微妙に長いもの、太いもの、それぞれわずかに違った表情を見せています。
 5枚揃ったときに生まれるリズムに僅かな狂いが生じることで、私はじっと見ていたくなる、その僅かな狂いこそ、作者がそれぞれのお皿と向き合った時間の証明であると思います。そしてそれは、私が今度開こうと思っている個展のテーマにも通ずるものがあります。おたのしみに。

 枯山水の庭園に、水が流れていました。白い砂利は水を表すといいますが、ではなぜわざわざ本物の水を流しているのでしょうか?
 私が思うに、音や色を減らしたかったからではないでしょうか。庭園に足を踏み入れて思ったのは、木々をすり抜けてきた風の音、葉と葉がこすれる音、水の音、そして庭園の向こうに広がる山々から、鳥たちの豊かな鳴き声。あらゆる方向から音がし、そして風が私の肌をさするのです。身体が庭園を感じているのです。
 もしも、白い砂利の部分まで本物の水だったらどうなるのか。水の流れる音が大きくなり、頭を揺らします。水は色を映すことができるので、目がくらくらします。かつてのバランスでなければ、身体を透明なフィルターにして、この空気を全身で感じ取ることはできないのかもしれません。
 自然の中で自我を保ちつつ、しかし身体を透明にして自然とつながるためには、情報が多すぎてはいけないのかもしれないと思いました。



 

 

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