お気持ち表明

3月26日(日)、京都の梅屋アートスペースというところで、個展を開催します。


そんな人はあまりいない小学校で中学受験をしたので、私は教師に目を付けられていました。皆が分からない問題を塾で習ったからとすらすら解けば、きっとまた怒られるだろうと思って、わざと間違えたことが何度もあります。

子供のころにそんな時期があったから、皆と同じリズムに乗ることに敏感になっていたのだと思います。
中学校で、部活の先輩の機嫌がすこぶる悪い日、私の学年が頭ごなしに怒られている最中に、「あなたのそのリズム感はいいね、私すごい好きよ。」と褒められたことがあります。

真面目な人の中では一番不真面目。不真面目な人の中では一番真面目。
明るい人のなかでは一番暗い。暗い人の中では一番明るい。
あらゆる性質にグラデーションがあるとすれば、私はその濃淡のどちらでもないところに、いつもぽつんと立っているような気がします。そこは別に寂しくないけれど、安心できる場所というわけでもありません。

先日一人で美術館へと出かけて、ある有名な人が作ったお皿に出会いました。料理家であり、グルメであり、陶芸家だった人物の作品です。
用途に合わせた何種類かのお皿が展示されていたのですが、それぞれの種類ごとに5枚ほど、同じ柄で作ってありました。ガラスケースに近づいていくまでは、同じ皿が5枚並べてあるな、くらいにしか思わなかったのですが、目の前に来てみるとそれらは少しずつ違っているのです。ほくろは数えだすと増えて感じられるように、わずかな凹凸や筆触の違いを探すほど、一つ一つのお皿が息づくように感じられるのです。そのお皿たちと時間をかけて向き合った陶芸家のまっすぐな背筋が、目の前に立ち現れるようでした。

同じように見えるお皿が一度に並べられることで生まれるリズム。
そしてじっくりと向き合ってみると気付く一枚一枚のずれ。そもそもはじめに感じた全体のリズムこそ幻だったんじゃないかと思うほど、それぞれのお皿が違った表情を見せています。
それを感じ取るのは、たった今開いているこの二つの目だけではなく、これまでの暮らしの中で丁寧に育んできた心の眼もそうなのです。心の眼を通せば、お皿がふんわりとまとっている時間の空気の中に、かつての作家の背筋をも感じ取ることが出来る。お皿の持つ時間と場所が今と遥かに隔たっていても、そういったあらゆる制限を乗り越える瞬間がやって来るのです。

3年前まで、いつか日の目を見ることを信じて、売れない歌手を熱烈に応援していました。彼が15年前に出した曲の名前に「Rhythms」という単語が入っていて、綴りの難しさが気に入ったので、インスタグラムのIDに入れることにしました。
その歌手の曲は1年以上聞いていません。ただ、その人を本気で好きだった気持ちを忘れたくないと思って、今もIDはそのままにしています。

大学生という意味で私はどこにでもありふれていますし、別に飛びぬけて何かが出来るわけではありません。校舎に向かう生徒の列に器用に身を沈め、遅刻ギリギリのタイミングで教室に流れ着いていました。
大学では、私の行ったことのない県から来た友達や、近いようで降りたことのない駅に住む友達、プライベートのことはあまり語りたがらない友達、実に様々な性質を持った人たちと出会いました。
ずれていることを恥ずかしく思わなくなったのも、人とのやり取りに規範を求めなくなったのも、その反動で写真や絵にはリズムや整った構図を求めるようになったのも、大学でのあらゆる出会いの結果だと思っています。


個展では、ギャラリーの中央に机といすを用意して、皆でワインを開けようかと思っています。日常からずれて京都まで流れ着いてしまった皆が、同じようなグラスでワインを飲んで、また日常へと戻っていくところが見たいです。毎日いいことがあったりなかったり、悪いこともあったりなかったりですが、いつか流れが変わったときに、ふとこの展示を思い出してもらえたらうれしいです。

画家になりたいと思っていましたが、自分でもびっくりするくらいあっさり諦めてしまって、そんな自分が好きではありませんでした。大学でだらだらと勉強をして、美術との縁が細々と続き、今卒業ということになって振り返ってみると、私は意外と誠実に、美術の世界と手を繋ぎ続けていたと気付きました。

この4年間で、恥ずかしいことも自慢できることも経験して、弱虫のくせに度胸ばかり身についたので、個展を開催したいと決意しました。
これからも全然かっこよくない毎日を繰り返すと思いますが、いつか振り返るときに、「愛嬌・美学・教養」という、私の人生三本柱に背かない人間になっていたいと思います。

あこがれは光った順に遠ざかる/忘れた頃に会いにくる どうぞ宜しくお願いします。

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