【エッセイ】誠にクソ男

 一発抜いた後では、執筆に真摯に取り組む姿勢も熱量も一切皆無である。
 ドSの先輩とのバーチャルな一時を終えたM男の執筆者は、賢者タイムに入ってしまっている。今の彼の脳みそには、抜く直前まで読んでいた愛読書の影響も一切皆無である。

 つい先程まで、珈琲店でピース又吉直樹さんの『東京百景』の文庫版を読んでいた。この書は、私にとってバイブルと断言できる存在なのだが、自分としてはやたらに影響を受けすぎてしまっている節が見受けられるので、普段は若干の距離を置いている。特に単行本の方は装丁が好きで、もし人生のいたずらで自分にエッセイを出す機会が訪れようものなら、全く同じ作りにしたいと切望している。(ドアタマで安直な下ネタを綴ってしまう馬鹿に真似されたら、真似される方もたまったものではないだろうが)
 文庫版の巻末には書き下ろしのエッセイが書かれている為、単行本の方を手に取る機会はよっぽどの時にしかないのだが、表紙の手触りが図書館の書籍に似ており、まるでラミネート加工されているかのような手触り。これがまず私の心を奪った。それだけでなく、サイズ感も文庫本より少しだけ大きいぐらいなので持ち運びにも煩わしさを感じることはない。内容に関しては最早語るまでもない面白さなのだが、短文のエッセイの奥深さと面白さを知ったのは完全に本作がきっかけだ。

 そういえば、建築学校に通っている時に『オリジナルの休憩スペース』を作成する課題が出されたことがあった。その時私は、建物の外壁と屋根を合計三冊の文庫本の実寸大で組み立てて再現した『文庫館』という、自身の文庫本に対する歪な偏愛の全てをぶつけた作品を発表した。
 設置された椅子や机、本棚などの家具も全て文庫本を等倍縮したパーツだけで組み立てる程、文庫本に執着して作った『文庫館』。外観には、当時私が好んでいた愛読書籍をささげ、壁には町田康「きれぎれ」と今村夏子「こちらあみ子」の文庫本のカバー絵をそのまま印刷した。残りの一冊、屋根の部分が何の作品だったのかが中々思い出せなかったのだが、確かこの『東京百景』の単行本を使用したはずだ。(文庫館の趣旨からはズレてしまうが、東京百景の単行本は小さめだから単行本だけどまあ良しとしたのだろう)

  当時からの私の悪い癖で、団体生活の中での自分の優位性を「他の人たちと一風変わっている」といった要素、所謂「奇をてらった」行為で得ようとしてしまっている節が、この『文庫館』のプレゼン資料の端々には内包されていた。
 建築物の発表なのにA4のプレゼン用紙の約三分の二を『私にとっての本と建築』という処女作のエッセイで埋め尽くしてしまい、「これは八割方読まなくていいです」と前置きした上で恥ずかしがりながら早口で一言一句飛ばさずに全文読み上げた。そして最後に「暇があったら建物の写真と模型も見てください」と残り三分の一のスペースを指差して述べるとそそくさと自分の席に引っ込んでしまうという、私にとってはなんとも痛々しい奇てらいの記憶である。しかも、私は当時二十八歳。たとえ年齢を加味しなくても、これはもう完全な黒歴史である。

 課題の構想をひとりで練っている最中は自分のやりたいことを素直に行っているだけなのだが、提出期限が近づき、発表の日を間近に控えると周囲の生徒たちの課題のクオリティやアイデア性を目の当たりにして焦りを感じてしまい、何とかその差を埋めるためにも、奇てらいの方向に全力で舵を切ってしまうのである。これが私の悪い癖だ。
 その時の私の深層心理ではいったい何が考えられているのかというと、やはり「普通のやり方だと勝てないから、自分の好きなこととやりたいことを詰め込もう」という焦りでいっぱいで、そのままラストスパートを無我夢中に走り抜けた結果、自己主張ばかりが強く出すぎた物を仕上げてしまうのである。
 
 そういった「奇てらい」の作品を発表すると、いつも最初は「すごいね」とか「どうやって考えたの?」という感想が周囲から飛んでくるのも良く知っている。とはいえ、所詮は自分の不器用さと実力の無さを隠そうとした、ただの誤魔化しに過ぎないことを自覚している。なので、発表から日を重ねる度、本当に実力のある人の周りへと人は流れていくし、自分の心情としても、結局「このままではいけないな」という焦りが改めて生じ始めるのは、もういつものお約束ごとである。もちろん自分でも実力を磨き上げようと努力はするのだが、いつも器用な優等生には到底敵わず、発表の度に毎回奇てらいを繰り返しただけという、なんとも惨めな記憶のみを残してしまうのである。
 
 こういった奇てらいは、若い頃なら周囲の人間も「面白い」とか「個性的」と誉めてくれたり明るく笑って許してくれるものだが、齢三十近くの人間が奇をてらい続けることにはリスクばかりが先立つようになる。
 いい年したおっさんが奇てらいを続けていると、さすがに周囲の人たちの頭にもクエスチョンマークが漂うようになり、そうは容易には見過ごしてくれなくなるのである。「もうおっさんなんだから世間に迷惑を掛けないようにひっそりと暮らせ」というような排他的な感情が差し向けられるようになってくるわけである。
 結果「若いうちに沢山恥をかけ」とか「若いうちに沢山失敗しろ」などの教訓の反面教師に当て嵌められてしまい苦い思いをする、なんてのが奇をてらう人が通らざるを得ない、人生の基本ルートなのだ。

 ここで話は一気に変わるが、ハッキリ申し上げて私が結婚ができた理由は、「私と妻が若かったから」という理由しかない。
 
 出会った当初で年齢は、中々若者とは言い難い二十六歳。だが、まだギリギリで「世間知らず」とか「変わっている」とか「変人」とかの言葉が好意的に受け取ってもらえる年齢であった。
 女性が心動かすようなデートプランを立てたことはこれまでに一度もないし、彼女が喜びそうなことをできていたかといわれれば、せいぜい50点ぐらいの出来であったと思うし、大体いつもその後の性行為のことだけが私の頭の中ではいつも最優先事項であった。
 
 私たちが破局しなかったのも、お互いに30代を目前に控えてこれからどうしていくかで悩んでいる時期だったから、そういった要素も加味して結婚という選択をしたに過ぎない。(もちろんお互いに「この人なら」という選別はあったと付け加える)
 
 私の場合、その当時たまたま読んでいた小説の主人公が物語の中で結婚を選択するものだったから、その作品にただ影響されただけだ。しかも、その主人公は職場の同僚と一時のセフレ関係になる浮気を行ったくせに、付き合い始めて10年近くもの間煮え切らずこれから先別れるかどうするかといったような状況にある本命の彼女との結婚を決断するという、恋愛物としてはどちらかと言えばアウトサイダー寄りな純文学小説であった。
 
 その小説の主人公もたまたま人生の分岐が訪れたから結婚を選択したようなもので、私自身もその小説の内容と主人公の人生選択の流れが頭の中にこびり付いていて、ついなし崩し的に真似をしてしまったような節が強い。結婚に関して、今のところ心の底から後悔をしたことはないが、「独身だったらこれができた」とか「結婚したからこれができない」みたいな目に見えない拘束具をまとってしまったような感覚だけは、未だにどうしても拭い去れない。
 
 しかし、結婚をしてからの私はある意味では、精神的に安定した。奇をてらうような行動もかなり成りを潜めるようになった。
 対人関係でも「こっから踏み込んだらいけない」というようなストップを自らにかけてしまいがちだし、うっかり私情や趣味、プライベートについて口を滑らせてしまうようなことがあったとしても、職場の人間が一切興味を惹くことがないレベルに止めてしまう。(そもそも私はおしゃべりが下手なのだが)
 結局私は何が言いたいかというと、現在の私には自分の居場所がないということだ。現在の私の職場や学校、交友関係の中には、素でいられる場所が全くない。
 
 プライベートの私はまともに趣味を謳歌しているタイプでもないので、結句部屋の中でいつもああでもないこうでもないと一人で唸っているばかりの毎日である。

 最近「アクティブな趣味が必要だな」と、尚のこと思うようになったし、自宅以外にも自分の居場所が必要だなと感じるようになった。

 これまでの私は、インドアで一人で緻密に継続するような趣味や金銭を節約することばかりに時間をささげてきたが、どうだろう。このままの流れで30代をあっさり終えてしまって、いいものだろうか。
 私には本来、やりたいことがたくさんある。だが将来性とか、自分の能力を高めるためだからとか言った言い訳を重ねることで自分の行動に縛りを作ってしまい、部屋の中でうじうじする日々を過ごしてしまっている。
 
 私は、このまま職場や家の中や、過去の友達たちとだけで自分の人生を完結させてしまってはいけないと思った。というよりも、そんな自分だけでこれから先短くとも数十年は残っているかもしれない余命を、戦い抜いていくことができる気が全くしない。

 今年新しくできた趣味の一つは、ドライブである。ガソリン代や外食費でそれなりに金銭を出費してしまうが、やはり気分転換にはとても楽しい趣味である。この趣味を作ってしまったことで、ここ数年細々と行ってきた古書販売の副業が一向に進展も規模拡大もできていない。というか、古書販売も億劫になり始めている。元々収集だけは好きなので、ドライブの度に書籍の数だけはどんどん増えていくが、減っていく兆しが一向に見えない。
 
 これまでは「自分のやりたいように」ということばかり考えて人生を取捨選択してきたが、これからは「自分が何をできて何をしていると人生を豊かに過ごすことができるのか」といった部分にも焦点を当てていくべきなのかもしれない。
 
 執筆に関しては、約六年前に始めた当初と同様の熱量こそもう持っていないかもしれないが、書いていて苦痛を感じることはめったにないし、執筆がスムーズになってくると普段灰色の休日でも途端に輝きを増すし、家庭内でもこの時だけは妻に懇切優しく接することができるのである。(誠にクソ男である)
 
 散文や雑文を書くことは、自分の中に渦巻いている人生のモヤモヤを、一度分解してから改めて身体の中に取り込む作業で、私にとって非常に重要な日課である。
 
 仕事が昼夜交代のせいもあって中々朝の日課を継続することができなくなってしまっていたが、完全に昼夜逆転の生活というほどでもないので、少しずつ自分本来の生活リズムに修正をしていこうと思う。
 まずは朝一の散歩とストレッチ。これは必須事項だ。そこからランニングとかウォーキング、筋トレに発展させることも視野には入れているが、そこはまだ曖昧でいいかなと。

 とにかく生活の基盤を作り、規則正しく過ごす。そのうえで、自分にできること、やらなければならないこと、できないこと、やりたくないことを選別して、一つずつ行っていく。

 ありきたりだし、若干逃げの要素も含まれてしまっているのだが、私にはこれが一番心地よいのだ。
 誰の目も気にせずに素で書いたただの雑文なので、本投稿に対する否定的な意見や論争はお断りする。誠にクソ男で御免。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?