小説「モモコ」第1章〜1日目〜 【3話】
繁華街の外れにあるゲストハウスの扉には、古い喫茶店で見かけるような大きな鈴がついていて、僕ら二人が扉を開けると、それがカランカランと鈍い金属音を立てた。
入り口から向かって左側が受付、右側は大きなソファが向かい合わせに置かれたロビーになっていた。ソファには東南アジア系の女性二人が座り込んで、スマホ画面を熱心に眺めている。
受付には、長い髪に長いあご髭を生やし、ゆるめの綿生地の白シャツを着た、いかにもヒッピー系といった出で立ちの男が立っていた。最近は1960年代アメリカを風靡したこういうスタイルが、一部の熱狂的な人々の間で再流行しているのだと、モモコから耳打ちされた。
「いらっしゃいませ。お二人ですか?」
受付の男は訝しげに二人の客を見比べた。くたびれた魚臭いジャケットを着た若い男と、ニット帽にスカートを履いた育ちの良さそうな少女の組み合わせ。何も疑うなと言う方が難しいだろう。
「ルンバお兄ちゃんがね、川に落ちちゃったの」
モモコが唐突に話を始めた。先ほどまでとあまりにも口調が違っていたので、演技に入ったということがすぐにわかった。
ルンバ? と男は聞き返した。
この疑問についてはこの男と同意見だった。名前を考えると言っていたのはそういうことか。他になかったのか、というのが正直な気持ちだった。
「あの、すいません。この子、僕の兄貴の子供で、いま一緒に地元からこっちに来たんですけど、僕がさっきあっちの川に落ちてしまって」
僕は必死で合わせにいく。
「あ、那珂川ですかね? それは大変でしたね。ええと、ルンバさん?」
男は苦笑いしながら尋ねた。
「ああ、前に僕の家に来たときに、自動ロボットの掃除機を見せたんですよ」
僕は恥ずかしそうに続ける。
「それをこの子が気に入ってしまって。掃除機の名前を教えたら、それ以来僕のことをルンバお兄ちゃんって呼ぶようになって」
ルンバなんて名前にする計画はまったく聞いていなかったので、僕は即興で嘘を取り繕う羽目になった。モモコに目をやると、やるじゃない、とでも言わん表情で、僕を見ながらニコニコしていた。
「ははは、変な子ですよね」
「そうですか。でもどうしてまた川に落ちたりしたんです?」
男が不思議そうに尋ねた。
「この子と川岸近くで遊んでいたら、足を滑らせまして」
男は川に落ちたことは信じてくれているようだった。
「怪我がなかったのが幸いでしたよ。とりあえず一泊頼めますか?」
「いまはこの子が小遣いだけが頼りでして」と僕は情けなさそうに続けてみせた。
ルンバの由来を信じたかどうかはわからないが、見るからに憔悴しきった僕を見て、男の同情は得られたようだった。親身になって聞いてくれる男の顔を見て、少し申し訳なくも思った。
「財布もなくしてしまったのですね。このことは警察には?」
「ええ、警察には伝えました」
僕は声のトーンを落として言った。
「いろいろ手続きがあるみたいで、ひとまず明日まで待たないといけなくて。とにかく今日の宿をしのぎたいのです」
家は遠くに? はい、電車でいっしょに遊びに来てまして。そのあとしばらく、そういった一連の状況確認が続いた。
一通り話し終えると、男は受付に置かれたパソコンを叩いた。画面を見ながら宿泊の状況を確認しているのだろう。
「6人のシェアルームしか空いていませんが、よろしいですか?」
「それでいいわ!」
すかさずモモコが嬉しそうに声をあげた。
「それに私は身分証を持っているのよ」
自分の保険証を自慢するモモコに、男は困ったように苦笑いした。
「わかりました。それでは、一応お嬢さんのカードに免じて、少し割引しておきましょう。ルンバさんはこの用紙にサインしてください」
あ、本名でお願いしますね、と男はにやにやしながら付け加えた。
僕はその場で思いついた適当な名前を記入すると、簡単にお礼を述べた。
「何か必要なことがあれば言ってくださいね」
「ええ、ありがとう!」
モモコが屈託無い笑顔で声をあげた。
シェアルームには二段ベッドが三つ置かれ、左側に寄せるようにして並んでいた。
一番手前のベッド上段には、欧米人らしき男がトランクス一枚の格好で寝ている。おそらくヨーロッパ圏の出身だろう。下段には誰もいないが荷物だけ置かれていた。女性物バッグと、キャリーケースが一つ。
二番目のベッドは、上段も下段も空いていた。モモコが上段を希望したので僕は下段を寝床にすることにした。
部屋の奥の三番目のベッドには、上段にはアジア系の男が寝ていた。向こうを向いていたので、日本人か外国人かの区別はつかなかった。下段ベッドでは若い男が本を読んでいた。こちらは日本人だとすぐにわかった。おそらく、二十歳近くの大学生だろう。
「なあ、どうしてルンバなんだ?」
僕はベッドに腰掛けると、左脚をさすりながら尋ねた。凍えていた筋肉を急に動かしたためか、ふくらはぎが軽い肉離れになっていた。
「嘘をつくときはね、できるだけ大きな嘘をついた方がいいのよ」
モモコがベッド上段から顔を出して言った。
「それに、本名みたいな偽名は間違えたときに怪しまれるでしょ? 偽名を使うなら、最初からふざけた名前の方がいいわ。間違えても全然怪しく思われないもの」
「なるほどね」
モモコの弁舌に感心しながら、この子はいったい何者なのだろうと改めて不思議に思った。
「モモコちゃん、一つ聞いていいかい?」
「ちゃん付けしないで」
「ああそうだった。モモコ、一つ聞いてもいいかい?」
「いいわ」
答えられる範囲でいいんだけど、と僕は前置きをした。
「君は何者なんだい?」
〜つづく〜
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