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周りに気遣いすぎて疲れた僕が、変えること、変えないこと。

朝、起きられない。

 目覚ましが鳴る。止める。でも、まだ寝ていたくて、目を閉じる…。また目覚ましが鳴る。止める。でもまた目を閉じる…。

 そんなことを繰り返すような目覚めが、何日か続いている。7時間くらいは寝ているから、時間が短いわけではない。
 湿度のせいとか、暑さとか、いろいろ要因はあるのだろう。最近、身体をつかう業務が減り、体力が落ちたことも、一因かもしれない。

 でもおそらく、主たる原因は、この春からのいろんな変化だ。
 一つは、区(自治会)の区長代理者という役を新たに引き受けたこと。今までは一区民として、言われたことをやってきただけだったが、今年度は、区の行事や決め事にも関わっているし、会計も一手に担っている。加えて、自分がすすんで自治会のあり方を変えていこうともしていて、やりがいはあるが負荷が高い。業務に費やしている時間を記録しているのだが、現時点でもう50時間を超えている。
 第二には、職場に新スタッフを迎えたこと。今までもスタッフを迎えたことはあったが、それは経理スタッフ。僕がやってきたような業務を代わってもらうスタッフをは初めで、思うように行かないことが続いた。本人は真摯に取り組んでくれているし、同僚もいろいろと工夫をしてくれてはいるのだけれど、試行錯誤で、この3ヶ月間、気苦労が絶えなかった。
 加えて、今年度予定していた業務が、思わぬ形でなくなり、事業計画を大幅に見直す必要が生じている。今もその調整の最中だ。
 おそらく、これらの負荷、ストレスが、一気に出てきたのだろうと思う。以前に読んだうつ関係の本で読んだ、"ストレスの渦中はアドレナリンが出ていて頑張れるけど、それが一段落着いた後で、たまっていた負荷が症状として出てくる"、という知識にも照らせば。

人生の目的って?

 こういうときは、ストレスから離れて、好きなことをして過ごすのがよい。
 ということで、本の読めるカフェへ行った。
 そして人生のヒントになりそうなものをさがす。本棚から手に収まったのは、みうらじゅんとリリー・フランキーの対談本だった。予想通り、ゆるい会話。人生とは、仕事とは、なんて話題も、この二人にかかれば、下ネタも絡んだ他愛無い話になっていく。
 でもけっこう、本質を突いてたりもする。特に今日、僕に沁みたのは、人生の目的なんてのはなくていいけど、自分の「美意識」を守ることは大事じゃないかな、という言葉。

僕がやってきたことに意味はあるんだろうか

 今の職場に来て、もうすぐ15年。水俣闘争もそのルーツに持つ、滋賀の生協運動、びわ湖のせっけん運動を引き継いできた。「子どもと湖が笑ってる未来へ」向けて、「草の根自治を守り育む」ことがミッションと、循環型の暮らしや社会を守り育むべく、身近な人との協力、地域社会の中での連帯の形成に取り組んできた。
 でも、その変化は、僕らの身の周りからなかなか広がらない。社会の大勢は、効率や利便性を求め、課題解決も表面的。資本による支配、人間の人間たる力の低下など、根本的な問題は先延ばしさえれているだけでなく、より深刻化しているように思う。
 加えて、ここ10年以上の付き合いをしてきて、相互理解できてきたと思っていた人々との共同プロジェクトも、最近になって、根本的な価値観の相違に気づき、徒労感に襲われてもいる。
 やってきたことに意義はあるのか、これからやっていくことは、望む未来につながるのか?そんな疑心暗鬼にも、とらわれたりもする。そんなネガティブな気持ちなのには、今の自分の心の疲れのせいも大いにあるのだろうけれど。

自分が大切にしたいことは、変えなくてもいい

 今思う。きっとだいじなことは、僕が死ぬまでに「何をできたか」、ではなく「どう生きたか」なんだろう。上記の本で響いた言葉に照らしても。
 振り返ってみれば、僕らの先輩たちも、資本による支配が広まりゆくなかで、小さな生業を守ることや、人々の連帯を育もうとしてきた。その試みは限定的にしか成就はしておらず、社会の流れに抗い切れたとは言えない。
 それでも、そのルーツの中に、少なくとも僕はいて、僕の周りにも友人や仲間たちがいる。そうやって火を消さずにつないでいる、ということだけでも、十分、成果なんじゃないか。
 いまも、社会全体の中では多数派ではなく少数派だろう。本流ではなく傍流だろう。でも、かつて恐竜時代には逃げ回っていただけの哺乳類が、隕石の衝突による環境変化を経て、今や食物連鎖の頂点にいるように、環境が変われば、主役は変わる。
 その時がいつ来るかはわからない。でも、絶やさずにつないでいさえすれば、社会の景色が大きく変わる日がやってくるかもしれない。
 そして、大きくは変わらなくても、僕は、自分の大切にしたいことを、大切にしたい仲間と、守り、育んで、人生を全うしていけばいい。それで自分はきっとその時々を納得して生きられると思うし、きっとその成果、あるいは「生き様」が、次に続く人たちの何らかの役に立てば、なお、生きた甲斐があるということだろう。

自分のやり方は、変えていい

 一方で、今までとは変えつつあることがある。それは「周りに気を遣いすぎること」をやめていく、ということだ。周りからの評価を気にする、周りの人に手をさしのべてばかりいること。それによって、余計なことをしすぎたり、余計に気を遣いすぎたりして、かえってその人の成長の機会を奪ってしまったり、自分もいつのまにか消耗していたりする、ということ。

 以前から、そういう癖があるな、とは薄々感じていた。でも、そのくらいはみんなやるべきものだし、みんなもやっていること、と思ってきたから、これまで、しんどくてもやり続けてきた。
 しかし、どうも、そうでもないらしい、ということに、やっと最近になって、気づけたのだ。
 きっかけは、ある研修で知った「ソーシャルスタイル診断」というもの(例えばこちら)。設問に答えることで、自分軸ー他人軸と感情的ー理論的、という2軸に自分をプロットし、4つのスタイルを分類するものだ。自分で診断をしてみたら、他人軸で感情的、という「協調型」に分類されることがわかった。ほかには、自分軸で論理的、という「行動型」などがある。
 この診断で、自分が、平均よりも他人軸寄りで、感情寄り、ということが理解できた。そのことで「もう少し自分中心でもいいんだ」とか「もう少し感情を押さえてもいいんだ」とか思えるようになり、楽になった。
 そんな折に、久しぶりに実家に帰る機会があった。母や姉の様子を見ていて、その「協調型」ぶりに接し、あぁ自分の今のスタイルは、こういう家族の中で出来上がったものなんだという気づきも得られた。
 だから、最近は、以前よりすこし「ジコチュー」的で「つっけんどん」でいるようにしている。きっとそれでも、どちらかといえば共感的だと思うけれど。
 そうすることで、自分への負荷が減り、ゆとりができるから、結果的に他者にも、ゆとりをもって接することができるようになれているように思う。

自分に返ってくる、学生さんに投げた言葉

 ある大学で毎年1回、学生さんへのゲスト講師に招いていただいている。相手は、地域課題に取り組むことを専門としている学生さんたちだ。
 その場で今年、重点を置いて伝えたことは、「他者から評価されたい」から地域に関わるのではなく、「自分がほんとうに求めているもの」を満たそうとして地域と(社会と)関わることが大事だ、ということだ。他者目線でなく自分の内なる情動からでないと、力も出ないし長続きもしない、と。地域貢献とか社会貢献が、今まで以上に社会的に評価される時代になっているからこそ、ぶれない自分の軸をしっかり持とう、と。

 そして思った。その言葉は、そのまま、自分へとかえってくるなぁ、と。きっと、若い人たちの姿にその課題を見出している僕は、自身の中に、その課題を抱えているのだろう、と。
 僕は今、ほんとうに、自分のニーズに基づいてやれているのだろうか?「誰かの役に立ちたい」という、他者軸だけに依って立ってはいないだろうか?そのことを、確認しつづけようと思う。その態度は、これからも変えずに。

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