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環境だとか平和だとか言うけど、要は「おいしい」とか「楽しい」とかを守りたいってことだよな。と、アジフライをつくりながら気づいた日。

今日の夕飯の、アジフライをつくりながら気づいた。

「あ、僕が守りたいのって、"日々の営み"の豊かさなんだな」って。

普段から僕は、環境とか、平和だとか、子どもの育ちだとか、いわゆる社会問題に向き合ってる。

だけど、その原点は、「おいしい」とか「面白い」とか「楽しい」とか「可笑しい」とか「愛おしい」みたいな、"日々の営み"の豊かさを守りたい、っていうことなんだな、って。

社会を変える、ってことは、目的じゃないよな、って。

"日々の豊かさ”を守る手段なんだ、って。

ちょっと、どきっとしたこと。

しばらく前から、「敗北を抱きしめて」を読んでいる。2000年ころに発刊された、ジョン・ダワーという歴史家が書いた本で、第二次大戦の後、日本で何が起きていたのか、その出来事が今の日本の社会状況にどうつながっているかを、膨大な資料を元に描き出している。


前から知ってはいたが、ながらく読めていなかった。先日、あらためて本屋で目にして、今度は読む気になった。ウクライナ侵攻以来の軍備増強の動きへの危機感もそのきっかけの一つだ。

しかしページをめくりながら僕は、そこに描かれている、当時の人々の想いや生き様のリアリティに惹かれるようになった。そして知っていった。

究極に貧しく混乱した中で、日本人も、統治をしていたアメリカ人たちも、共に、二度と同様の戦争を起こさない民主的で平和な国づくりに理想を持って取り組んでいたこと(統治に携わったアメリカ人には、ある意味で宣教師的なマインドがあったとも)。

戦後の極貧で人々があえいでいる中でも、富める者たちはいて、その人達の民主化の理想の言葉は、貧しい人には空虚に響いていたこと。

など。
そして自分のことを振り返った。

僕はいま、社会的によきことと言われることに取り組んでいるが、もしかしたら自分は、当時のアメリカ人的な、押し付け的な正義感で動いてはいないか、あるいは、当時の理想ばかりを語る者の類になっていはいないか、と。

社会的な活動の中で感じた、空虚さ。

このごろは、怒涛の日々が続いていた。昨年の夏ごろからつい最近まで。

この間、特に僕がエネルギーを注いできたことはおもに2つ。一つは、不登校の子どもたちも安心して育ち学ぶことができる地域づくり。もう一つは、郷里を流れる高時川の流域自治だ。

前者についてはフリースクールなどの活動をされている方々と、後者については高時川とその水源域に関わる方々と対話を重ね、協力関係を構築してきたし、その歩みは着実に進みつつある。

しかし一方で、自分の中で、どこか、空虚さも感じる部分があったことも、確かだ。

やるべきだし、やりたいことをやっているのは間違いない。しかし何か、満たされないものを感じてきた。

自分の暮らしの中に、豊かさを。

そして、今日、アジフライでつくった。
アジフライをつくる時間的なゆとりが、やっとできたから。

アジフライをつくるのは初めてだった。

スーパーで美味しそうなアジを目にし、スマホでレシピを見て、アジフライをつくりたくなった。
つくる時間も、あった。

つくってみた。ちょっと試行錯誤しながら。
いい感じでできあがった。

食べてみた。

やっぱり、とても美味しかった。
惣菜で買うものとは味が全く違ったし、胃もたれもしない。

あぁ、これだな、これ!
なにか欠けていたのは、これだった。

「おいしい」「面白い」「楽しい」これらの豊かさが、暮らしの中にやってきて、僕の気持ちは満たされるようになった。

自治会や地域活動の中で感じている安心や楽しみ。

加えてこの4月から、集落の自治会の代理者(区長代理)を務めている。自治会の会計を預かる立場だ。

仕事は想像以上に多いが、一人ひとりの区の人たちと関わることが増え、一人ひとりの方のことをより知れるようになった。

今日も、区主催のグラウンドゴルフ大会があり、区長さんや地区の福祉協力員の方々と協力もできたし、移住して最初に仲良くしてくださった方のお母さんと一緒にコースを回り、挨拶もして、共に楽しむこともできた。

併せて、昨年度から務めている学区単位の公民館のボランティアでは、広報部会の部会長にもなり、広報誌の作成の任を担っている。こちらでも、公民館のスタッフさんや、運営に関わるボランティアのみなさんとも関係が深まった。先日は有志の飲み会に誘ってもらって7時から12時までしゃべっていた。

こういう仲間は、思想とか、性格とか、そういうものを超えている。
ただ、同じ地域に住むもの同士、同じ地域活動に関わる者同士として、互いの得手を生かしあい、不得手を補い合って、協力しあう関係にある。
いわば学校のクラスメートのような、偶然的でフラットな関係が、そこにある。

加えて、昨年7月からはじめた、ゆるい自然観察会「しゃくなげ渓ウォーク」も、月1回のペースで和やかに続いている。

みんなが自然の営みに純粋に心を踊らせてやってくる。互いの視点を面白がりならが、歩き、雑談する。そんな営みを重ねているうちに、「気のおけない仲間」になってきた。今年の12月には、町立図書館で、写真展をしようと、静かに盛り上がりつつある。

これらの活動は、いわゆる仕事として、対価の得られるものではない。だけど活動を通じて、僕と周囲の人たちとのつながりは、着実に広まり、深まっている。

その結果、いま、こうしてPCに向かっているときも、僕は近くで暮らしている人たちの存在をより多く、より身近に感じられている。安心とか、親しみとかが、増している。

そしておそらくそれは、僕自身だけに起こっていることではなく、僕の周りで暮らす人々にも、同時に起こっていることなのだ。

「楽しみの地域自給」「安心の地域自給」「面白さの地域自給」。

それがいま、僕がやっていきたいことなんだし、やっていけばいいことなんだ。
今日つくったアジフライを食べ、今日持ち帰ったグラウンドゴルフの参加賞のビールを飲みながら、府落ちした。

自利利他、なんて言葉もあるように、まずは自分の日々の暮らし、地域での営みの中に、おいしい、とか、楽しい、とかをつくっていくことが大切なんだろう。

僕が守りたい子どもの育ちも、自然環境も、平和も、つまりは、人と生き物、それぞれの命の、それぞれの場所での、日々の暮らし、なんだよね。

僕も一人の当時者として、縁ある人々・生き物たちと、共に、暮らしを紡いでいくこと。それが、僕の日々の願いであり、幸せであるし、それがきっと、誰かの願いや幸せと、響き合っていく。

いま、そう感じている。


あ、そうそう、今日は調理クズを土に還せるように、生ゴミコンポストもつくろうと、材料も買ってきた。
でも、ちょっとわからないところがある。

明日、職場で、経験のある仲間に教えてもらおう。

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