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NO OCCUPATION

占領するな ひとの住処を
占領させるな ひとの住処を

拘束するな ひとの命を
拘束させるな ひとの命を

占拠するな ひとの心を
占拠させるな あなたの心を

拘束するな ひとのコトバを
拘束させるな あなたのコトバを


パレスチナの演劇を見て

昨日、イスラエル占領下のパレスチナの人々が監獄で受けている凄惨な仕打ちが描かれた演劇「占領の囚人たち」録画上映会に参加した。

観たあとすぐには、コトバがでなかった。20人ほどの参加者の方々と同様に。

でも今朝、布団のなかでひとつの言葉が浮かんだ。
"NO OCCUPATION" 

劇中で、演者の一人であるパレスチナ人俳優カーメルさんが
"OCCUPATION ! "と叫ぶシーンが何度もある。

見るに耐えない非人道的で屈辱的な行為を目にする度、彼は"OCCUPATION !"と叫ぶ。ぼくらはそれらすべてが"OCCUPATION"がもたらすものだと識る。

日常の中にあるOCCPATION

OCCUPATIONとは、この場合「占領」を指すが、「占拠」「占有」など、何かを占有すること全般を示す言葉だ。

強者が脅迫や暴力で、弱者の自由を奪い、意のままにし、搾取する行為だ。弱者を辱め、尊厳を破壊し、拘束し、無力化する。

このOCCUPATIONを「土地」だけでなく「身体」や「心」の占有へと広げて捉えれば、日本にいるぼくらもまた"OCCUPATION"の中にあるのだと気づいた。

たとえば、資本家による経済的な支配多数派による少数派への支配大人による子どもへの支配男性による女性への支配もある。

それらOCCUPATIONが横行することに慣れきってしてしまったぼくらは、稼ぐために無理をしてでも働こうとしなくてはならないし、命を削ってでも学校に行こうとしなくてはならない。

部下は上司の言うことには従わないといけないし、生徒は先生のいうことをきかないといけない。子どもや若者は大人のいうことをきかなくてはならないし、女性は男性を打ち負かしてはいけない。稼ぎの少ない人は多い人より発言を尊重されなくて、少数者は多数派に迎合しないといけない…。

だって、そうしないと、"怖い"から。

職を追われて食えなくなるのが怖い。
集団から阻害されて孤立するのが怖い。

違うと思っても、異を唱えることができない。

そうやってぼくらの判断基準の多くが、"喜び"を求めてのものではなく、"恐れ"を避けるためのものになってはいないだろうか?

もしそうだとしたら、ぼくらの心はもう占拠(OCCUPY)されていると言えるのではないだろうか。

コトバという銃弾

"NO OCCUPATION"の文字を書くことにした(冒頭写真)。
まずは筆で書きたたくて紙を取り出したが、筆が見当たらなかったので、あきらめた。

代わりに、段ボール箱を開き、マジックで書いた。
書き始めたら、感情が湧き出して、書きなぐった。
いろんな人の事を思いながら。

今日も撃たれたり、爆撃されたり、拘束され辱めを受けたりしているパレスチナの人々。
水俣病事件や福島原発事故などの被害にあい、身体の苦しみに加えて差別の苦しみをあじわってきた人々。
学校になじめないことで孤立して苦しむ子、その親。
上司からのハラスメントに苦しみながら、働き続けている人々…。

力をこめていたら、マジックが段ボールの中に食い込んだ。
まるで銃弾が打ち込まれた痕のようになった。

そしてふと気づいた。
人の身体が銃で傷つけられるように、人の心はコトバで傷つけられるのだと。

劇中で、パレスチナの人々がひどい言葉で貶められ、脅され、傷つけられていたのが思い出された。

振り返ればぼくらも、小さい頃から、蔑みや、脅しのコトバを、いっぱい浴びてきたように思う。

だからぼくらは、いろんなことを恐れるんじゃないか。
浴びたコトバの弾痕(記憶)がぼくらの心を縛っているんじゃないか。
そう、気づいた。

さらにぼくらは、被害を受けただけじゃあない。
年上になったり、大人になって力を持った時、こんどは誰かに浴びせててもきてしまったと思う。

心を占領されたぼくらは、また誰かの心を占領してきた。
きっとその誰かももまた誰かの心を…

ぼくらのコトバは縛られていないか

いま、"Free Palestine"のステッカーが僕のPCには貼られている

「パレスチナの人々に自由を」

その言葉は知っているかもしれない
パレスチナの人々の現状も知っているかも知れない

しかし
知っていても
人の目や
権力や
その他の何かを恐れて
口にできないかもしれない
何も行動できないかもしれない

もしそうなのであれば
すでに自分のコトバが縛られているとは言えないだろうか
心が縛られているとは言えないだろうか

まだ身体は拘束されていなくとも

コトバの拘束、心の拘束はやがて
身体の拘束へ
生活の破壊へ
尊厳の破壊へ
そして命の搾取へと続いていることを
ぼくは日本の過去の戦争で学んでいる

「あなたのために」
「みんなのために」
が、いかに、
「一部の人々のため」のものだったか
、も

縛るものから自分を解き放つ

先に自分を振り返ったのと同じように
いま占領を行っているイスラエルの兵士たちもまた
心を占拠された人々なのではないか、と思う

イスラエルの学校教育では
アラブの人々を蔑視したり恐れたりする教育がおこなわれていると聞く
社会の中ででもあからさまな差別がおこなわれている

かつて日本でも
中国、朝鮮、アジアの人々を差別し
またそれを助長する教育も行われてきた
そして、日本人は今起きているのと同じこと(虐殺)をした

日本だけでない
アメリカも、イギリスも、ドイツも、フランスも…
いわゆる「自由民主主義」の国々の多くはで行ってきたし
経済的に覇権を取ってきたことからも
この虐殺を止めることができずにいる意味でも
本質的に「帝国主義」のままだと思う(日本も)

おなじようにイスラエルでの教育を受けた人々は
パレスチナの人々を殺せてしまうのだろう

仮に違和感を感じても
国の方針従わないことは集団からの逸脱するから
きっと抗えないだろう
あのときの「非国民」と同じ心持ちで

では今の日本はどうだろう?

ぼくらは
「みんなと一緒であること」
「ルールに従順であること」
「言われたことをできること」
「人より抜きん出ること」
などが奨励される教育を受けてきた

果たしてそれはほんとうに
ぼくらの幸せを第一に願ってものもだろうか?

こんなにも適応できない子たちを生み出して
負け組をつくって
みんなが幸せになれるだろうか

生徒は自分自身のためだと思っているし
先生だってそう思っている
けれど
ぼくらをよき「労働者」かつ「消費者」として必要とする人々
すなわち資本家の意を反映したものなのではないだろうか
ぼくらをよき「納税者」かつ、いざとなったときの「兵士」として必要とする人々
すなわち国家権力者の意を反映したものではないだろうか

ぼくらは
お金をたくさん稼ぐことと使うこと
ひとより抜きん出ることが幸せだと刷り込まれてきたけれど
それはほんとうだろうか?

いちど立ち止まって、疑ってみることが必要なのではないか?

経営者も、先生も、大人も、子どもも、
自分の「常識」を疑ってみることがいま、必要ではないだろうか。

そもそも、ぼくらのほんとうのしあわせは
いろんな人と共存し、平等であること
ではなかっただろうか?

大地の恵みを持続的に分け合い
できることとできないことを補い合い
安らかな日々をすごすこと
ではなかっただろうか?

売上が大事?
成績が大事?
名声が大事?

ほんとうにそれが一番大事だろうか?

それよりも
どこで
だれと助け合い
共に暮らし生きていくか
のほうがずっと大事ではないか

いつの間にか
自分の心もひとの心も
実はすでに資本の論理、強者の論理で、占領されてはいないだろうか
場合によっては
自分も、占領する側に立っていないだろうか、

…と疑ってみることがいま、とても大切ではないかと思う。

だから
"FREE MYSELF ! "
自分自身を、自由にしよう。開放しよう。
そして
"FREE CHILDREN !"
子どもたちが自由に育ち学べるようにしよう。

自分と、身の回りの人々、そして子どもたちの未来を守りはぐくむためにも。

従順でなくていい。
言われた通りやらなくていい。
勝たなくていい。
褒められなくていい。

自分の本心を大切にすればいい。

きっと自分自身を自由にすることが
NO OCCUPATION !

FREE PALESTINE !

への道にもなると思う。

声をあげたいなら、あげよう
行動したいなら、しよう

今日一日
自分がどう生きるかを
何を語り、何をするかを
誰かに決めさせてはいけない
自分自身で決めるのだ

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