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炎 ― 小説工作機械メーカー │ Y工業大学編 第1章「1億のタネ」④

「いやいや、失礼しました。」
池尻教授は足早に会議室に戻ってきた。さしずめ、入札時期が想定より早くなりそうだと伝えに行っていたのだろう。池尻教授はメーカーや商社の前で焦りの態度を見られ、足元を見られることが悪手であることは理解しているらしい。
「お気になさらず。では続きを。今回K社さんの旋盤を更新されるというお話ですが、新しい機械はどんなスペックのものをご想定されていますか。」
納期の話は終わったので、やっと機械の話に移れる。商談において僕の大好きなパートだ。
「基本的には同じものですね。8インチのタレット旋盤で考えてます。」
最初にチャックの話だ。チャックはワーク(工作物)を固定する装置で、「爪」と呼ばれる鉄製の固定具を油圧によって作動させることで、円柱状の素材をがっちりと固定する。8インチとは、おおよそ外径8インチ=約200mm(業界内ではφ200と表記する)のチャックを付けて欲しいという要望だ。8インチチャックは概ねφ50~φ150くらいの素材を固定するのに向き、日本国内では最もポピュラーなサイズだ。当然これより小さいワークも大きいワークも、加工者の技術と経験次第では加工可能だ。
「主軸は1個で大丈夫ですね。」
「ええ、普通のやつで。」
「タレットも1個で大丈夫ですか。」
「はい。」

 NC旋盤は、主軸(チャックと連結し、モーターによってワークを回転させる装置)が機械左側に1個搭載されているものと、左右両方に1個ずつ搭載されているものの2種類に大別できる。反対側にも主軸があれば、ワークの自動受け渡しができ生産性を上げられるが、垂れが生じやすい細長いワークには対応しづらくなる。生産性よりも、多種多様な加工ができる汎用性が重視される学校向け案件において、2主軸搭載のNC旋盤が選ばれることはまずない。
 タレットは工具を保持する装置である。NC旋盤はチャックで保持したワークを主軸でろくろのように回転させ、タレットで保持した刃物を高速回転するワークに当てることによって、円柱状の金属を削るのが一般的な加工方法だ。タレットの数が多いほど搭載工具数が多くなり、複雑な加工をワンストップで行える。またひとつのワークに2本の工具を上下から同時に当てて生産効率を高める方法もあり、タレットが2個以上の機械ならではの加工だ。ただしそれはあくまでも同じ部品を数千~数万個以上加工する、いわゆる量産ワークの際に真価を発揮するもので、毎講義で別のワークを削る大学のようなユーザーには、タレット1個のNC旋盤の方が扱いやすい。今回はタレットは1個で良いとのことで、極めてオーソドックスなオーダーだ。

「わかりました。では機種はKHT-8000をご提案できるかと思います。」
 そう言いながら僕はビジネスバッグからKHTシリーズのカタログを取り出した。世界一のメーカーに相応しく上質な紙を使い、機械の写真をふんだんに盛り込んだ素晴らしい出来のカタログだ。1冊を池尻教授に、1冊を仁川さんに手渡し、もう1冊を自分の手元に置いた。
「やはりニモさんといえばKHTですよね。私の教え子の現場にもよく入っていると聞いています。」
 KHTはニモのベストセラー横形NC旋盤シリーズだ。コストパフォーマンスに優れ、初代KHT-8型が発売された1973年、実用的な8インチサイズのNC旋盤を800万円台で提供したのはニモが初めてだった。この機械によってニモは世界一への階段を駆け上がることになる。
 Y工業大学工学部はものづくり王国愛知のお膝下に相応しく、毎年多くの卒業生を地元の完成車メーカーや、大手自動車部品メーカー、重工メーカーなどの設計職や生産技術職に送り込んでいる。当然彼らの現場にはニモの機械が必ず設備されている。
「KHTは学校さんにも本当によく採用されてますからな。C大学とかH大学にも入ってますよ。」
 仁川さんのさりげないフォローに池尻教授も安心顔だ。近隣の大学にも導入されているということは、軽い質問をし合える環境があることを意味する。工作機械は、メーカーや商社に聞くまでもないようなトラブルや質問が常にあるもので、そしてそれは大抵本やネットで答えを見つけることはできない。だからシェアの高いメーカーを採用することのメリットは大きい。
「そのようですね。仁川さんが売られたんですか?」
「滅相もないですよ、池尻先生。僕はY工業大学さん一筋なんですから。」
 池尻教授の無邪気な質問を仁川さんは軽く受け流す。確かにC大学は別の大手商社経由だが、H大学は仁川さんが僕の前任者と複数台案件をクローズしたのは分かっている。カネの臭いはなるべく消すことに徹しているらしい。アカデミアの人間は商売の世界を知らないことが多い。「儲かっている」という雰囲気や印象がユーザーの心を遠ざけることを、仁川さんはよく心得ているようだ。

「それじゃあ細かい仕様を詰めていきましょうか。まずはチップコンベアですけど・・・」
 その後20分に渡って、カタログをもとにオプションの打合せを行った。いくつか質問は出たが、いずれもその場で即答できる、取るに足らないものだった。
「ありがとうございます、池尻先生。大体スペックは問題ないかと思います。あと、一点お願いがあるのですが。」
 そう池尻教授に言いながら僕は仁川さんを一瞬ちらりと見る。仁川さんは、僕のいつものことだと鷹揚な様子。
「はい、なんでしょうか。」
「現場、見せてもらえませんか。E棟の、K社さんの旋盤。」
 池尻教授は若干虚を突かれた表情だ。
「別に、それは構わないのですが、何かありましたか?」
「そうですね、それじゃ歩きながらご説明させて頂いてもよろしいですか?」
 僕たち3人はメモ帳とカタログを鞄に仕舞い、E棟へ向かって会議室を後にした。

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