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炎 ― 小説工作機械メーカー │ Y工業大学編 第1章「1億のタネ」③

「ちょっと、失礼してもよろしいですか。」
 そう言い残し池尻教授は足早に会議室を出た。

「上に入札時期を早めるようにお願いに行きましたね。」
「だろうね。」
 僕と仁川さんは微笑した。
「ところで仁川さん、他メーカーの納期の話なんて、よく知ってましたね。」
「ああ、あんなもの分かるわけないだろ。ウチはニモがメインなんだし。出まかせだよ。でも大方間違ってないだろ?」
 つくづく仁川さんはタヌキ親父だ。河和商会の工作機械販売の8割以上はニモが占めているので、他メーカーの情報が即座に出てくるのは不思議ではあった。池尻教授が仁川さんを厚く信頼していることを完全に逆手に取っている。利用できる人間関係はきっちり利用する。さすが、地場の中小商社とはいえ、営業マン十数名のトップに立つ人間だ。
「それはそうと機械納期、まだ伸びるのか。」
 今度は仁川さんが僕に質問した。
「そうですね、5.5か月から半年くらいは、本当にいっちゃうかもしれない雰囲気ですよ。」
 僕はいま池尻教授と仁川さんの両方を欺いている。本当はさっきの米国IT企業活況の話は、先日の営業会議での専務の受け売りだし、それによって納期が伸びるという話も僕の耳には入っていない。なにせ毎日7時半から23時まで仕事しているのだ。新聞を読んだりニュースを観る暇など僕の生活には1秒も存在しない。
「そうなんだな。他の案件の見込客にもそのこと言っとかないとな。」
「必要であれば僕も同行しますから。」

 僕が機械納期を材料に池尻教授を脅迫したのには理由がある。僕たち工作機械メーカーの営業マンの実績カウントは、受注ベースだ。つまり注文書にユーザーが判を捺した時点で僕の成績になる。実際に機械がユーザーに納入され、カネモトの法人口座に機械代金が入金されるのは、受注から短くても3か月後、長ければ1年以上先なのにも関わらずだ。
 僕はどうしてもこの案件は2001年上期、つまり2001年9月までに受注したい。だから7月末までに発注しろと迫っているのだ。どうせ案件というものは1か月や2か月遅れるものだ。最初から9月までの発注で良いですよと言ってしまうと、結局は遅れて10月受注になってしまう。スケジュールについての議論はなるべくメーカーが主導権を握る。その上で早めの期限を切っておくのが定石だ。
 このことを仁川さんに言わないのは、仁川さんの実績カウントは回収ベースだからだ。つまり実際に機械がY工業大学に納入され、河和商会の法人口座に機械代金が振り込まれて、はじめて仁川さんの成績になる。仁川さんにとってはこの案件の受注が7月でも10月でも、特に関係がないのである。僕と仁川さんとはもう4年の付き合いだが、互いに別会社の人間で、それぞれがそれぞれの利害を持つことを忘れてはならない。

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