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本当の「私」

みなさん、ほんとうの「私」を知っているだろうか?

本当の「私」さえ、「私」の思考であり、幻想です。

その幻想を考える事で、本質からまた離れていきます。

人間にとって、本質より、幻想の方が捉えやすく、わかりやすいために、本質にたどり着く前に、それを手に取って遊び始めます。

本質に近づくためには、何かを学ぶことではない

という事は、ここまでの文脈で解っている方はいらっしゃいます。

「本当」といういかにもなフレーズですが、この「本当」という幻想を創り出し、伝える方々で世の中はあふれています。

本当のことを伝えているようで、多くの方を足止めしているという事に気付く由もありません。

「この世は幻想だよ」というお話も幻想でしかありません。

幻想の中に幻想をつくっているだけのようにも見えます。

一見、夢から覚めるような話であっても、夢の中で夢を見るのかもしれません。

この部分は、適当に流してください。

理解しようとする必要はありません。

「私」を知るという事は、形を成す以前のそれを深く知っていく事でもあります。

それさえもいずれ、幻想だと気づくことになるかもしれません。

「かもしれない」というのは、そこでとまればそれが真実ですし、その先に行けばそれが幻想にもなり得るという事から発しています。

議論は幻想に囚われた中でのお遊び

議論をしようとする時、何か真実を掴んでいなければできません。

もしくは、真実に着地しようとする議論もあります。

科学も幻想だとは言い切りませんが、そこに目絵を向けてみるのも面白いと感じる方はいらっしゃるように思います。

様々な段階で、様々な捉え方があります。

ですから、同じ言葉で全体に向けて伝える事は、どの幻想を採用しているかによって全く違って伝わる事になります。

しかし、幻想を超えた観点に触れている方が稀にいます。

そういった方の思考の所作は、明らかに違います。

それを見ると、その方が、悟りに至る素養があるか無いかが見えてきます。

思考の所作を通して、その方の内側を知ります。

幻想を通して実在を知る。

この辺の話を理解する必要はありませんし、自然に起こる理解に任せられれる方が、近い方でもあります。

自覚を通して、こういった事を整えています。

整えるとは、自然にそこに向かうようになる必然を置く事。

けっしてそのようになろうとする事ではありません。

それを始めた瞬間から囚われからの思考が動き始めるからです。

これを読んで、自覚の奥行を少しでも感じられた方は、素養があるかもしれません。

悟りとは、どういうことだ

という勉強をしている方は沢山いらっしゃいます。

しかし、なぜ悟れないのかを学ぼうとする方はいらっしゃいません。

それを知るなら、それをやめる事で、悟りを開く必然に近づくのです。

ですから、塾では、沢山の方がそこに至る事になっています。

そこからが、面白いのですから、そこまででわざわざ苦労する事はないように思います。

自分自身を降ろせない、自分のプライド、自分の価値観

そういったものが邪魔をしているのですが、それを在る様にしているのは、誰なのでしょうか?

そこがクリアになったのなら、次の段階に進む準備が整うのです。

ゴールを設定し、目指すことは人間の所作です。

ご自身の無限の可能性を知ったなら、ゴールを設定しなくても自由自在になっていきます。

この世の制限というルールの中で一生懸命生きるのか?

ルールを抜け出した観点で生きるのか?

その選択を誰がするのでしょうか。

選択が何かに影響されているなら、それは主体性を放棄している事になります。


何世紀もの時を超え、私はここに立つ。 静寂の中で、私は自分自身の声を聞く。 この世界の喧騒を離れ、真実の私を見つめる。 ここにいる私は、誰なのか? この瞬間、私は私自身の本質と対話する。水面に映るは、過去でも未来でもない。 今この瞬間の、純粋なる存在。 私は私自身の中に、永遠の静けさを見出す。 そして、私は悟る。私が私であることを。by copilot


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