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「言葉は眼の邪魔になるものです」

明日の言葉(その13)
いままで生きてきて、自分の糧としてきた言葉があります。それを少しずつ紹介していきます。


秋の花ってなんか謙虚で好き。

冬がすぐ隣にあるせいか、なんかちょっと儚いというか、滅びが内包されているようなイメージを勝手に持ってしまう。

そういう佇まいが愛おしくて、近づいてゆっくり見る。

「あぁキレイだな。この花は何という花だろう・・・」

そのたびに花の名前が気になるのだが、もう20年以上、あまり花の名前を知りすぎないように心を戒めてきた

はは。
変な戒めだよね。

それは、花の名前を知った途端、ヒトは花を「見る」ことをやめてしまうとわかってからのことだ。


その心の動きを活写した文章を、小林秀雄が「美を求める心」の中で書いている。

高校時代この文章に出会って以来、花の名を知るなんてことは意識せず、ただ素直に「美しいもの」「妙なもの」として花を見る、ということを心がけてきた。

今回の言葉はその文章の中から。


言葉は眼の邪魔になるものです。



この言葉の後に小林秀雄はこう続ける(太字筆者)。

「例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だと解る。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かって見た事もなかった様な美しさ、それこそ限りなく明かすでしょう。」


例えば、「ん? あの道端の黄色い小さな花はなんだろう?」と近寄ってみる。

美しいなぁ、なんて奇跡的な色合いなのだろう・・・

でも「あぁなんだ、キンモクセイか」と解った途端、ヒトは「見る」のをやめる。

キンモクセイというラベルを心の中で貼り、もう観察しない。なんでもないもののように見捨ててしまう。

でも、その花の名前を知らなかったとしたら、ぎりぎりまで近寄って観察するだろう。

グッと眼を近づけ、その黄色とオレンジの中間のような表現しがたい色をよくよく愛でるかもしれない。世界とはなんと美しいものかと感じ入るかもしれない。

そして、そういう観察をするものだけに、花は「かって見た事もなかった様な美しさ」を明かすのだ。

小林秀雄は「画家はそういう風に世界を見ている」と続ける。

あ、あれは何だろうと思って近づくのは一緒だが、ボクらが名前を知ろうと思って近づくのとは根本的に違うのだ、と。

「画家は皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。何か妙なものは、なんだろうと思って、諸君は、注意して見ます。その妙なものの名が知りたくて見るのです。何だ、菫の花だったのかと解れば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。好奇心から、ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何にもなりません。」


40年前、ボクはこの一連の文章を読んで、絵の見方まで教えられたのだった。

画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない、と。
裸婦像も静物画もなるほどそうやって見るのか、と。
ピカソの展覧会へ行くということはピカソの眼を共有することなのだ、と。

だからボクは美術館に行っても絵の題名をなるべく見ない。

絵に対しても「名前」を知りたくなってしまうから。
そして題名を見た途端「見る」のをやめてしまうから。
画家が描いた、言葉をもたない美しさや妙な部分が見えなくなってしまうから。

その結果、ボクにとっての美術館の存在意義は180度変わった。

美術館は美しいものが置いてある場所ではなく、美しいもの・妙なものへの画家の視点が並べてある場所なのだ。


だから美術館に行くことは相当パワーを要したりする。
余暇にぶらぶら行くなんてことはなかなか出来ない。

希有なアーティストたちの目を共有し、自分をそこに合わせて行く、とても体力がいる場所になったのである。



逆に、目が見えない方が美術館を「言葉」で楽しんでいる例を読んだ。
とても考えさせられる記事なので、ぜひ。


※※
もちろん、草花の名前にとてもくわしい人でちゃんと「見る」人はいる。
ボクの友人も、草花の名前にとてもくわしい上に、友人たちの間で一番「見る」ことをしている。彼女と山とか行くと、しょっちゅう立ち止まって観察している。素晴らしいなと舌を巻く。



古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。