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カルビーの ポテトチップス 原爆忌

明日の言葉(その8)
いままで生きてきて、自分の糧としてきた言葉があります。それを少しずつ紹介していきます。



昨日は原爆忌だった。

正確に言うと、広島原爆忌(8月9日は長崎原爆忌)。
1945年8月6日朝8時15分、アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下された。

毎年、広島平和記念式典のテレビ中継を見ながら、8時15分に黙祷をする。
黙祷の一分間、せめて当時のことを想像する。

でも、想像しきれない。

広島平和記念資料館で写真を見たり、映画や映像を見たことはもちろんある。

でも、想像しきれない。

まぁ当たり前なのだ。
想像できる、と言い切る人のほうがおめでたい。


ただ、あるときから、ボクはふたつの言葉を手に入れた。
そのうちのひとつを今日は紹介したい。

カルビーの ポテトチップス 原爆忌


中田美子の句である(句集「惑星」より)。
俳句として見事だと思う。

カルビーのポテトチップスに、もしくはそれをパリパリ食べている自分に平和を象徴させ、原爆忌と同居させたものすごさ。まるで現代アートのインスタレーションのように、人の心に異物を放り込む。

いろいろな解釈が可能だろう。

テレビで中継される原爆式典を見ながらぼんやりポテトチップスを食べる自分、という風景に平和の実感を乗っけたとも思えるし、広島出身のメーカー(カルビーは元々広島のメーカーである)の商品と原爆を対比させて今の平和を浮かび上がらせたとも思える。

もしかしたらポテトチップスの薄さと壊れやすさに、原爆体験を風化させつつある現代の繁栄&平和の薄っぺらさを重ね合わせたのかもしれない。
いや、現代日本の商業的繁栄が寄って立つ地点をきちんと示したのかもとも思える。

そう、解釈がどんどん広がるという意味においても、俳句として見事である。


ボクはこの句をとても大切にしている。
毎年、8月6日に必ず反芻する。

「どうやっても原爆を想像できない自分」にとって、この句は「想像の入口をこじ開けてくれる鍵」なのだ。


別に原爆の惨状を伝えている句ではない。
それ自体は、写真や映像のほうがリアルに伝えてくれる。

でも、この句はボクを、ある風景の中に連れて行ってくれる


それは、無人の茶の間である。

田舎のおばあちゃん家にあるような、畳にちゃぶ台があるような茶の間。
そこには人の気配がない。

ちゃぶ台にハエよけの網。
網の中には誰かのための昼ご飯が置いてある。
座布団と、朝刊と、すり切れた畳。
縁側の外の庭には強い夏の日差しが当たり、庭の隅にひまわりが見える。
遠くの山に蝉が鳴き、風鈴がチリンと鳴る。

そんな中、なぜか古めのブラウン管テレビがつけっぱなしである。

そこから、「♫カルビーのポテトチップス」というTVCMのサウンドロゴが、無人の茶の間に、明るく流れてくる。

でも、それは誰にも届かない。
人の気配は、相変わらず、ない。

のどかな風景、というよりも、少しホラーのような、不気味で不穏な空気が漂っている。


・・・そんな風景を、少し浮遊して、中空から見ている自分。


ボクたちは、平和な日常を、当然のように大量消費しているが、それはとてもとても壊れやすい。そして、日常の破壊はとても静かにさりげなくやってくる。

少なくともそれだけはボクも想像でき、自分ごとにできる。

この句は、それをリアルに実感させてくれる。
ボクにはなくてはならない言葉なのである。




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古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。

ありがとうございます!じっくりじんわり書いていきます。
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コミュニケーション・ディレクターです。 さとなお名義で食やエッセイの本、佐藤尚之名義で広告関係の本を書いています。最新刊は『ファンベース』(ちくま新書)。 1995年から個人サイト「さとなお.com」を運営しています。
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