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3.11災害支援。人生であんなに人に会い、あんなに動き回ったことはない。


東日本大震災から9年経った。

2011年。
ボクはちょうど50歳になる年で、前年の夏に勤めていた会社を辞めて独立する決断をしており、3月末が退社日だった。

もちろん退社後の構想はまとまっており、ばりばり仕事をしようと燃えていた。

その退社日の3週間前にあの大地震・大津波が起こった。

そこからボクの人生は思いもよらず「災害支援」へと転がっていく。

転がっていく条件も揃っていた。

●阪神大震災の被災者であること(被災経験があったこと)
●ネットにくわしく、SNSのフォロワーも多く(当時7万人)、長く広告クリエイターをやってきていること(伝えるスキルに長じていたこと)
●「国民と政治の距離を近づけるための民間ワーキンググループ」に所属し、内閣官房に太いパイプがあること(官と民をつなげられる立場にいたこと)
●会社を辞める直前であり、自分の行動を自分で決められる立場であること(自由に動ける時間があったこと)


この4つを兼ね備えているのは日本でたぶんボクだけだ、と思った。

・・・どうしよう。
   動くべきだな。そうだな。
   でも本当にできるかな。
   覚悟がいるけど、大丈夫かな。
   人生的にも、本当にそれでいいのかオレ。

かなり逡巡したことを覚えている。

ボクにできることがあるとすると、上の4つの強みから考えて、「民と官を連携させた、ネットやSNSを駆使した情報支援」だとは考えていた。

SNSなどを通じて膨大に入ってくる民間の情報。
でも、デマなども混じるし、政府や省庁しか出せない公式情報も多い。
それらを結びつけ、情報をより分けた、有益な公式情報サイトが必要だ。

阪神大震災の被災経験から、「有益な情報は、水や電気と同じくらい重要なライフラインである」と身に沁みてわかっていた。

だから、「情報を膨大にインプットして、有益な情報をよりわけて、正確に世の中にアウトプットしていく、マスメディアとはまた違う情報ステーションが必要だ」と強く感じてはいた。

でも、それを政府・省庁を巻き込んで始めたら、後戻りは出来ないし、個人の人生なんて吹っ飛んでしまう。

たぶん「会社を辞めたあとに考えていた今後の仕事」は始められない。
つまり人生が変わってしまう。
個人だけでなく、家族への影響もはかり知れない。

そして、収入がなくなる。
会社は辞めちゃうし、退社ご祝儀で来るであろう仕事も受けられない。

それらも容易に想像できることだった。

(まぁ結果的に、震災後は世の中的に広告どころではなくなり、広告業界全体が「仕事がなくなる」わけなんだけど)


311の夜は東京でただ呆然としていた。

翌12日の午前中に腹をくくった。

昼くらいだったか、前内閣官房副長官の松井孝治さんにメールを出して構想を提案した(送信ボタンを押すのに1時間くらい逡巡したが)。

すぐプレゼンに来てくれ、と言われ、徹夜で構想を固め、13日朝には当時の前官房長官だった仙谷由人さんにプレゼンに行って「GO」が出た。

それを、すぐ協力を申し出てくれた石川淳哉や斉藤徹たちとそのままのスピード感で突っ走り、同時にSNSを通じてわらわらとたくさんのプロボノたちが集まってくれ、そうして日本初の官民連携プロジェクト『助けあいジャパン』が立ち上がったのだった。

そこからは物理的に眠ることができなかった。
毎日毎日、悲惨な情報、哀しい情報、過酷な情報が次から次へと飛び込んでくる中、寝る、という選択肢はなかった。

「どうする、なにやる、どうやる、すぐやる」とかやっているうちに、あっという間に時間が経った。

そして、「助けあいジャパン」のサイトはどんどん巨大化し、震災支援情報サイトとしてはメディアや企業が作るものも含めた中でも最大なものとなっていく(yahoo!やgooに情報を提供するくらいは質も高いものになっていった)。

その間、無収入。
官と連携はしていたが、ボランティア運営だった。
社団法人を作るとか、運営寄付を募るとか、マネタイズするとか、発想もしなかった(その辺がボクの悪いとこ)(そしてずっと後で痛い目にあう)。

いつの間にかボクは、内閣官房震災ボランティア連携室のメンバーにもなり(これもボランティア)、サイト制作や被災地活動の合間に、内閣府に通うようにもなっていた。

内閣府の隅っこに急遽つくったスペースで官僚たちと激論しながら、「オレ、なんでここにいるんだろう」と、寝不足の頭でぼんやり窓の外を見た感じを今でもリアルに覚えてる。


毎日が精一杯だった。
人生であんなに人に会い、あんなに動き回ったことはない。
分単位で予定があった。
毎日新しい人に数十人は会うような生活だった。
メールもSNSも爆発していた。
文字通り寝るヒマがなかった。
そんなこともあってか、実は記憶もほとんど曖昧だ。

あのころ作っていたサイトのキャプチャーも、活動記録も、ほとんど残っていない。

一度だけ、5年前くらいに、いろいろ探し出してまとめたことがある。

せっかくだから、それを貼ってみたい。

情報サイト立ち上げを時系列にまとめた図。
最初期のころのとか、本当にキャプチャーする間もなく日々変わっていったので、ほとんど残っていない。

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これ(↓)は2011年の秋くらいにようやく全体構成が確立したころの全体像。

いや、奥までズズッと深い、すごい情報サイトだったなぁと思う。
ボクは旗を立てただけで、日本中から優秀なプロボノたちが集まってくれ、みんなでどんどこ作り上げた。
ボクは一応「代表」だったけど、サイトの細部はもうボクでも把握しきれなかったレベル。

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ボランティア情報や義捐金・義援金情報などは、ここに日本一集まっていたと思う。
その情報収集チーム(学生さんたちが集まってくれた)だけで一時期数十人いた。

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ネット上だけでなく、リアルでも「ボランティア情報ステーション」を作って、情報提供した。
「ボランティアツアー」という仕組みも、観光庁と連携してボクたちが作った。

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マスメディアが拾いきれていない被災地の細かい情報を、トヨタさんから車を提供していただいて、とにかく集めていくこともやっていた。

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なんか、これ以外にもいろんなコーナーや支援活動があり、書き切れないし思い出しきれない。


というか、こうしていろいろ思い出していると、できたことより「できなかったこと」のほうがより思い出されて、悔恨の念に胸が痛い。

至らないことだらけだったなぁ。

いろんな人に迷惑かけた。
顔向けできない人も何人かいる。


この災害支援の日々が自分の中でちゃんと消化されるのは、きっとずっとあとのことなのだろう。



最後になりましたが。
あの大震災で亡くなった方々、被災した方々、いまでも避難生活を続けている方々、何かしらつらいことを抱えている方々に、心から、お見舞い申し上げます。

そして、支援に関わった方々へも。
いろんな想いを込めて。




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古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。

ありがとうございます!じっくりじんわり書いていきます。
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コミュニケーション・ディレクターです。 さとなお名義で食やエッセイの本、佐藤尚之名義で広告関係の本を書いています。最新刊は『ファンベース』(ちくま新書)。 1995年から個人サイト「さとなお.com」を運営しています。