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「どんな髭剃りにも哲学はある」

明日の言葉(その14)
いままで生きてきて、自分の糧としてきた言葉があります。それを少しずつ紹介していきます。


村上春樹の1973年のピンボールは何度も読み返している好きな小説だ。

その中のジェイ(ジェイズ・バーの店主)のセリフのくだりになると、毎回サマセット・モームを思い出し、ランニングについて考え、森鴎外を読み返したくなる。

それはこんなジェイのセリフだ。

あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。


この「どこかで読んだよ」という言葉は、サマセット・モームからの引用である。正確に言うとかみそりの刃からの引用だ。

この言葉について、村上春樹は走ることについて語るときに僕の語ることというカーヴァーみたいな題名の本の前書きで以下のように書いているから間違いない。

サマセット・モームは「どんな髭剃りにも哲学がある」と書いているどんなにつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれるということなのだろう。僕もモーム氏の説に心から賛同したい。だから物書きとして、またランナーとして、走ることについての個人的なささやかな文章を書き、活字のかたちで発表したとしても、それほど道にはずれた行ないとは言えないはずだ。手間のかかる性格というべきか、僕は字にしてみないとものがうまく考えられない人間なので、自分が走る意味について考察するには、手を動かして実際にこのような文章を書いてみなくてはならなかった。


そう、間違いない。
著者本人がこう書いているのだから、サマセット・モームからの引用なのだ。

でも、大学時代(40年前)、初めて『1973年のピンボール』を読み、この「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉を読んだとき、ボクは、森鴎外からの引用かな、と思った。

もしかしたら森鷗外のカズイスチカという短編のことを指しているんじゃない?って。

なんでそんなことを思ったかというと、受験浪人をしているとき、駿台予備校の藤田という現国の先生が、講義で何度もこの短編とこのくだりを強調して語ってくれたからだ。

「非常に短い小説だけど、森鴎外の人生観はすべてこの短編に入っている。だから読みなさい」
「森鷗外を知りたければ、特にこの短編のこのくだりを読みなさい」

その先生は何度も熱くくり返した。
そして、ボクはその熱に押されて浪人時代にこれを読んだ。

そしてとても(いまでも覚えているくらいとても)心に強く止めていたのである。

「カズイスチカ」からそのくだりを引用してみよう。

そのうち、熊沢蕃山の書いたものを読んでいると、志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのであるという意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父のresignationの態度が、有道者の面目に近いということが、朧気ながら見えて来た。そしてその時から遽に父を尊敬する念を生じた。


「髭剃り」と「顔を洗ったり髪を梳ったり」は少し違うし、「学ぶ、哲学する」と「道を行う」も多少ニュアンスが違う。

でも、ボクの中では見事に一致した。

どんな髭剃りにも哲学はある。

平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのである。


このふたつの言葉は、ボクの中でつながっている。

そして、浪人時代から大学時代、そして60歳前の今に至るまで、何かにつけては思い出し、目の前の些末なことを疎かにしないように自分を戒めるのである。

もう一度、『カズイスチカ』から引用する。

自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた

なんと胸にチクチクくる言葉であることか。

なにか、遠い向こうにあるものを望んで目の前を疎かにするのではなく、目の前のことを「全幅の精神」でやること。


このnoteを書くために、久しぶりに『カズイスチカ』を再読したんだけど、この年齢で再読できて良かったな。

なかなか難しい境地ではあるのだけれども。



古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。