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なんにもできない日々

久々にnoteを開けて、過去記事を読み返す。こんなこともあったなぁ、という忘れてしまった想い出が、遠くから私の心のドアを「こんこん」とノックする。

およそ1年前の自分は食べて・寝ての繰り返しをしていたと書いてあったが、最近の私も日中ほとんどの時間を寝ていて、あまり活動らしい活動はできていない。夕方から夜にかけて、少し活動できるくらいの元気さだ。「元気?」と尋ねられたらぼちぼち、と返すのがこの程度である。

よくわからない吐き気がもういつからかわからないくらいずっと続いたりなんだりで、家事もほとんど夫がやってくれていて、特に生理前後の2週間はひどくぐったりしている。夫はあの手この手で私をサポートしてくれる。家事は勿論のこと、たとえばあずきのチカラを温めておなかに載せてくれたり、それが終わったらおなかをさすってくれたり、滋養のつくドリンクや鉄分のサプリメントを買ってきてくれたりして、「しんどいねぇ」と共感もしてくれる。ありがたいが過ぎる。

所謂「生産的な活動」というのをほぼ何もしていない。たとえば、仕事をしたり、育児をしたり、そうでなくても、読書したり、ものを書いたり(今はこれを書いているが)。私はこの「生産的な活動」という言葉に呪いをかけられていた過去の自分をふと思い返す。

昔の私は、「働いていなければダメだ」という考えを強く持っていて、転職活動に勤しんでは、体調を壊していた。
夫と出会ってから、そして色々な友人との出会いを経てから、身の丈に合わない、つまり体調不良に繋がるような行動をすることをできるだけやめるようにした。

何もできず、ただベッドに横たわって1日を過ごす。1日は長いようで短い。SNSを巡回して、朝寝も昼寝もして、その間に自分の周りの人はそれぞれの人生をやっている。毎日毎日。私だけ、時間が止まっているような気持ちになる。

けれど、今の私はそれを卑下することはない。無理に頑張ろうとも思わない。こうしてぼーっとしていることが、今の私の最大限なのだと思う。よくやっている。生きている。

今日は生理がきたばかりで、今日明日とすごく調子が悪くなりそうだから、無理をするまい、と思う。よく手紙やメールの末尾に添える、「お身体ご自愛ください」の「ごじあい」をやっているのだと思う。


noteに書き物をしなくなってから、多くの友人と、そして夫と、さまざまな言葉を交わした。

最近あった特別なことと言えば、クリスチャンの友人や牧師さんと話をしたり、別のクリスチャンの方と聖書の読み合わせをしたりということが一番印象に残っている。ミッション系の大学に在籍していたから、ということだけが理由ではないけれど、私の頭のすみっこにはいつだってイエス様がいた。けれど人生の中で紆余曲折あり、そこから離れて別の信仰を持っていたこともある(そこからももう離れたけれど)。今のところ洗礼を受ける予定はないけれど、教養にもなるし、勉強を少しずつ始めているところだ。これも始まったばかりだから、どう転んでいくのかわからない。

大学生のとき、私はひとりぼっちで、サークルにも入らず飲み会にもほぼ行かず、ただ、大学の隣の大きな教会で行われるミサにちょこちょことひとり足を運んでいた。
「主よ、憐れみたまえ」「キリスト憐れみたまえ」。この歌をミサ中に何度も歌ったことをこの文章を書きながらふと思い出した。そのメロディーは少し物悲しく、それでいてやわらかくあたたかい掌で頭をやさしく撫でられるようなもので、ミサの中でとても好きな部分だった。

話が逸れたけれど、今は神様から「ゆっくり休みなさい」と言われているのかもしれないな、と思う。
元気が出てきたら、きっといい方向に物事が進んでいくだろう。こんな風に楽観的に物事を考えられるようになったのは確かなことで、一年後この文章を読み返したときには、きっと大切な何かを思い出させてくれるに違いない。

ひとつ今日いいなと思えたことは、ベッドに横になりながらも、noteの更新はできると気づけたことだ。日々のあれこれを、またマイペースに綴っていければいい。もちろん、休んだっていいさ。


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