見出し画像

注釈で長考する 『習慣の力〔新版〕』

 悪い習慣を絶ち切り、良い習慣を身に付けることに注目した本は、今は山をなすほど出版されているけれど、『習慣の力〔新版〕,チャールズ・デュヒッグ著,早川書房,2019』はその中でもちょっと古典に属する存在だ。原著は2012年、日本では2016年に初めて出版されている。

 アメリカで出版される啓蒙書にはよくあるパターンなのだけど、内容は意外と骨太で、事例紹介がたっぷり入り、たまに小粋なジョークが入る(アメリカの本にしてはかなり少なめ)。
 日本のビジネス系自己啓発本の親切さはどこにもない。でも読んでいてすごくわくわくする。

 とはいえ、習慣を変えたり作ったりする基本理論や手法については、古い本だけあって、今となってはそんなに珍しい内容ではない。もちろんそれを実行できるかどうかというのは別の話だけど、そこだけ知りたいのなら、たぶんもっと手軽な本がいっぱいあるのだろう。

 今この本を読む一番の面白さは、手法よりも、様々な事例紹介とそれにまつわる人間というものの「かなしさ」を見るところ……かも知れない。

★★★

 この本の凄みは、巻末に大量に用意された注釈である。
 注釈自体は、欧米の啓蒙書には必ずと言っていいほどあるけど日本の本には滅多になくて、これは日本の出版が改めるべき悪習だと思っているのだが、この本の注釈は単なる引用索引や背景説明に留まらない。もうひとつのストーリーと言ってもいい。

 特に読ませるのが、終盤の最重要エピソードのひとつであるギャンブル依存症の女性と彼女が通ったカジノに関するコメントで、分量としてはさらっと読めるような短文なのだが、「うーん……」としばらく考え込んでしまう。

 とある平凡な女性が、本当に些細なきっかけからギャンブル依存の坂道を転がり落ちてしまい、一度は浮かび上がれるかに思えたのに再び依存の底に沈んでしまった顛末自体が、ひりつくような感覚をもたらすエピソードである。
 だが私が目を吸い付けられたのは、注釈の、
「彼女についての記述は、本人への10時間以上にわたるインタビューと(中略)記録に基づいている。しかし、事実確認のための質問に対して、(中略)細かなことはほぼすべて不正確であるという回答をしただけで、その後、連絡が途絶えた」
という一文だ。

 書かれていた内容は、まあ確かに他人に誇れる話ではないのだけれど、彼女が著しくダメな人間だったとは感じられない。だからこそ怖い。読んでいる私も、あるいはごく身近なあの人も、もしかしたらこうなった、これからこうなる可能性は普通にあるのでは?と思ってしまう。
 つまり、彼女の名誉を特別傷つけるような話だったとは正直思えない。

 だが、恐らく本人にとっては「そんな話じゃない」のだろう。彼女に見えていた世界は、依存や習慣や自己責任や意志で説明できるような単純なものではないのだ。
 彼女はカジノに対して「自分を陥れた賠償責任がある」として裁判を起こし敗訴しているのだけれど、それも単純なお金や自尊心の回復を求めてというより、もっと根深い、「そんな話じゃないの! ここにあるのはもっと違う何かなのよ!」という悲鳴のようなものだったのかも知れない。

 もちろんこの本は「習慣」についての本だから、彼女の世界を説明する役目はないので、そこを引き受けることはしないのだけれど。

★★★

 一方で、この本には当然カジノ側にも事実確認をしており、丁重なメールの返事をしてくるのだが、その文章がまた盗っ人猛々しいと言いたくなるような(笑)慇懃無礼の総天然色見本という感じで、うぇっとなる。
 ざっくり言えば、「うちはちゃんと顧客に気を配って依存対策プログラムとか協力してますし、きれいなギャンブルのために頑張ってますよ? あと彼女が言ってることって何にも証拠ないですから。その辺踏まえて書いてくれますよね?」という感じで、うわー礼儀正しいヤクザだわーという感想しか出てこない。

 この文章を書いてる人ってどんな気分なんだろうと率直に思ってしまうほどの内容なのだが(笑)、腹の中で悪態つきながら書いているのならまだいい方で、もしかしたら書いている人も割とその返答を「信じている」のではないか……という恐ろしい想像がちらつく。
「ギャンブルなんかやるバカを食い物にしてむしってやるぜ」という悪っぽい素直な欲望でやっている人など、実はカジノには存在していなくて、本当に「社会に夢とワクワクを提供しているんです!悪影響にも配慮してますよ!」とキラキラした瞳で語っているのかも知れない。
 そんな想像が当たっていたら、そっちの方が怖いので、当たっていてほしくないくらいだ。

 以前、テレビで女性に貢がせるホストへのインタビューを見かけた。
 そのホストが新人の頃に「お客さんが大金を無理して持ってきて申し訳ない」と先輩に言ったら、先輩の返事は「お客さんが無理してるとか勝手に決めつけるのは失礼。むしろ大金を稼ぐモチベを出せるようサービスしてあげるのがお客さんへの本当の愛なんだ」と言われて納得した、という話をしていた。
 なんかいい話みたいに語られている、他人を搾取する邪悪な行為を倫理アンテナに引っかからないように骨抜きにするアクロバティックな論理に、文字通り開いた口がふさがらなかったのだけど、こういう倫理の骨抜き理屈を呑み込んでしまえる人が、ホストとして適応して生き残るのだろう。
(そしてもちろん、人間衣食に困ったら大抵のことは呑み込んでしまうのだが)

 あのカジノで慇懃無礼な返答を書いた人も、「うちがやってるのは綺麗なカジノだけど、それでも一部の人が悪用してしまうのを止められないよね」という論理に、表層意識では本当に自然に馴染んでしまっているのかも知れない。

★★★

 ギャンブル依存に陥ってしまった彼女も、その彼女から財産を奪い取ったカジノに勤める人も。
 たぶん会って話をすればごく普通のいい人だ。
 そのことが、あの注釈の短い文章が伝えてくる。だが伝わったこちらが噛みしめる現実は重たい。
 習慣で人は変われる。そう思うことは、この重さを受け止めて生きていく時、少し安らぎをもたらしてくれる。
 みんなみんな、どうかよい方向に変わって、幸せになってほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?