ブルシット・ジョブ関連三冊 自分が仕事の意味がわかるって、ほんとかな

ブルシット・ジョブ,デイヴィット・グレーバー著,岩波書店発行,2020年刊行
ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか,酒井隆史著,講談社発行,2021年刊行
ブルシット・ジョブと現代思想, 大澤真幸/千葉雅也著,左右社発行,2022年刊行

「ブルシット・ジョブ理論(通称BSJ理論)」は、ある種の人にとって、天啓のような光を放つ真理、もしくは心を捉えて離さない魔性を帯びた視点である。
 今従事している仕事もブルシット・ジョブだという共感や訴え、この歪みを変えるためにはどうすればいいのかという社会批評……だが、なぜか、「面白い」以上のものに繋がっていく流れがなかなか見えない理論というイメージがある。

 一番大本の『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』が、分厚くて訴える熱量は伝わってくるものの、話がくどくて繰り返しが多くて読み進めるのがきつい。そして翻訳者が書いた解説新書『ブルシット・ジョブの謎』は、それより読みやすいものの、ところどころ「え?そうなの?」と思うようなところがあったりする。

 私自身は「毎日が日曜日であるべきですよね〜!」みたいなタイプの人間なので、ブルシット・ジョブ理論に諸手を上げて大賛成するはずと期待して読んでみたら、終わった頃にはむしろ「え……ちょっと……この理論は……距離を置こう……」となってしまったので、自分でもびっくりしたというか、一周回って面白くさえなってしまった。

★★★

 ブルシット・ジョブの定義は、言葉の上では割と明確で、
「被雇用者本人でさえ、その存在を肯定しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用形態である。とはいえ、雇用条件の一環として、被雇用者は、そうではないと取り繕わねばならないと感じている」
というものだ。
 必要な仕事であるにも関わらず雇用条件や待遇が劣悪な仕事は「シット・ジョブ」として区別し、本来なら有償で報われてもいいほどの作業にも関わらず無償で要求されるケア労働についても言及しているが、これも(深い関連性があるものの)ブルシット・ジョブとは別のものとして定義される。

 たぶん私が最初にひっかかったのは、この定義の最初、被雇用者本人「でさえ」、というくだりだったのだと思う。
 被雇用者が、常に、自分の仕事の意味/無意味を判断できるって、実は非現実的な前提じゃないかな……?と感じてしまうのだ。
 色々な人の「仕事の愚痴」を聞いていると、本当につらくて大変そうで理不尽だなぁと同情するものもある一方で、自己評価が間違っていたり他人の意図を汲んでなかったり、状況の分析を間違っていたり、もう少し引いた視点から見ると別の重要性があるものを軽んじていたりするものも、結構ある。あなたも人の愚痴を聞いていて覚えがないだろうか。特に自分よりエライ人の愚痴だったりすると(笑)。

 BSJ理論のもとになったインタビューは、基本的に全て本人の自己申告で、提唱者のグレーバーさんが「質が非常に高い」と太鼓判を押すくらい念入りなのだけれど、言っていることがどこまで周囲の認識や実際の状況と同じなのか、食い違っているのか、正直よくわからない。なので、様々にあげられる仕事内容も、額面通りに受け止めると確かに無意味そうなのだが、反面「いやこれ、何か誤解してる可能性ない……?」と思ってしまう。
 あまりに極端な事例なので、疑ってしまうのかも知れないが。

 また、BSJの典型例としてあげられている様々な「無意味な仕事」の中には、視点を変えると「いやそんなに無意味でもないような、少なくとも単純になくしたら長期的にマズいことが起こりそう」と感じるものがあったりする。
 グレーバーさんは過去の著書で、「テレマーケター、企業顧問弁護士、広告業界全体、政治家とそのスタッフ」などを「その消失が人類にとって有益であるとほとんどだれもが賛成するであろう仕事」と主張したらしいのだが、その視野の狭さはさすがにげんなりさせられる。私とて、広告にうんざりしたり政治家の不正にがっくりしたりするが、さすがに「消失が人類にとって有益である仕事」と決めつける気にはならない。
「建物のドアマン」が「誰かのためにボタンを押すことだけという露骨に封建遺制のごとき類型」と紹介されているけれど、「お客様の顔を覚えてご挨拶してよい気持ちで一日を始めてもらえるのが私の生きがいです!」と心からのやりがいを表明する帝国ホテルのドアマンに謝れよ、みたいな屁理屈を勢い余って言いたくなってしまう(笑)。
 特に広告業界が、BSJ性の象徴のように何度か取り上げられるのだが、「誠実な幻想を通じて人々に資するはずのものが、いんちきの幻想によって人々を脅している」とされている。だがこれは、かなり疑問を感じる分類だ。
 誠実な幻想といんちきの幻想なるものが、そこまで上手に分けられるとは思えない。もしかしたら区別の曖昧なグラデーション、ですらないかも知れない。「ある人にとっては妙薬だが、ある人にとっては猛毒」みたいな話なのかも知れない。あるいはもっと複雑な問題なのかも。

 総じて、BSJ理論にまつわる様々な主張には、非常に深く思考した部分がある一方で、ところどころ唖然とするほどズレているように感じられる前提から組み立てられた部分がある。
 なんというか、自分の視点や価値観を、本当の意味で疑ったことがないんだろうな……という気がしてしまうのだ。様々な社会事例や思想、経済理論などが縦横無尽に取り入れられるのだが、「自分の考えに合う部分を切り抜いた」感が抜け切らない。
 そのため、全体的に解像度があまりに低すぎやしないか……と心配になってしまう。

★★★

 ちなみにその辺について、『ブルシット・ジョブと現代思想』は結構つっこんで考えていて、特に「ブルシット・ジョブに就いている人は、やりがいを得られる仕事に就いている人に嫉みと怒りを覚えるために、彼らの待遇を低くして復讐する」というグレーバーさんの分析を、バッサリ「間違っている」と切り捨てている。

 そして、むしろ「ブルシット・ジョブとそうでない仕事、という分類はできない」という視点を導入する。それは、BSJの根幹にある「やりがい」という感情自体がお金という実利と結びつくがゆえに失われてしまうことがある、人間心理に着目したものだ。
 著者の大澤さんは、「貨幣を媒介にする以上、全ての仕事がブルシット・ジョブとなりうるし、逆にブルシット・ジョブと呼ばれる仕事をやりがいのある本当の仕事に変えてしまうこともできる。それには、意味を自分の力で構築する力が必要になる」という論を立てている。

 確かに、グレーバーさんの定義で厳密に「絶対BSJにならない仕事」というものだけで社会を組み立てていくと、そこには「生存するのに最低限必要なこと」しか残らなくなり、それはもはや人間が人間である意味すらなくなってしまうような気がする。
 もしろんグレーバーさんは、「そうなれば人間は余った力で人間らしい創造性を発揮するだろう」と期待しており、その結果がイカれた芸術家もどきが世にあふれまくるだけであっても、多くの人がやりがいのない仕事に忙殺される現状よりはずっと幸せだ――という切なる願いを抱いていたのだけれど。
 その思いの切実さと願いの美しさには、むしろ泣けるほどの共感を覚えつつも……人間は、よくも悪くも、もっと様々な欲求に満ちているのではないか、と感じてしまう。
 生活に必要なものがそろった時に、でも「自己が満足する芸術を発信することでは満たされない」タイプの人だって、きっとたくさんいる。そういう人はどうやって生きていけばいいんだろうなぁ……というやるせない思いが、うなずくことをためらわせる。

 ブルシット・ジョブ理論を支えるものは、熱い社会批判と長大な分析ではなく、むしろ驚くほどイノセントでナイーヴな「人間はもっと善良に創造的に生きられるはず」という信念、祈りのようなものである。
 そこに根本的に共鳴する人は、この理論の抱える様々な瑕疵をスルーして自分のものにできるのだろう。

 逆に、その「善良で創造的」という部分に「(*善良か否かはグレーバーの価値基準による)」という匂いを感じてしまった私には、最後の最後まで、「世界も人間の心も、もっともっと広くて複雑だからね……」という距離感を埋めることができなかった。
 この気持ちが、私の社会学や哲学や経済に対する浅薄さによるものだという批判をされたら、うなずくしかないのだけれど。

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