見出し画像

『吉野朔実は本が大好き』 今はもうない、「オタク」の姿。

『吉野朔実は本が大好き』,吉野朔実著,本の雑誌社刊行,2016年発行
 共感を持って読める人と、遠い憧れのように読む人がいる。

★★★

 私の周囲の人に驚かれ、かつ若干引かれそうなことを告白するのだが、私は実は、吉野朔実さんのファンという訳では、ない。
『ぼくだけが知っている』あたりまでのほぼ全ての作品(デビュー作の『ウツよりソウがよろしいの!』みたいな短編含め)を読んでいるし、周囲に彼女の作品が大好きな人が多いので、私の周りの人はたぶん「さとみんさんは吉野朔実大好きだよね!」と思っているのだが。
 そこまで読んでいるので、もちろん嫌いではなく、好きか嫌いかで言えばむしろ好きで、今でも彼女の作品の様々なシーンや台詞が脳裏に思い浮かべられるくらいに覚えている。『恋愛的瞬間』の「今の自分は本当になりたい自分? ならばそこで待つべきだよ、空手でもしながらね。人は会うべき人にしか会わない。そこに運命の人はやってくる」というのは至言だと今でも思う。

 にも関わらず、私と吉野朔実さんの作品は、何と言うか「友人関係」みたいな距離感だ。自分の中の何かが深く重くコミットしていく感覚ではなく、会って色々な話をして「へ〜そんなことあったんだ〜おもしろーい〜そうそうわかる〜!」と共感や疑問を投げあって、そのまま別れていくような関係である。
 からっとして気持ちのいい関係だが、それでも私にとって、「無人島に行く時に何としても抱えていくもの」とはちょっと違う。
 いや、好きなんですけどね。
 好きな証拠に、たまに読み返したくなる。

★★★

 そんな吉野朔実さんは、長年「本の雑誌」という名前の雑誌に、「吉野朔実劇場」と題した、本や読書にまつわるエッセイを連載していた。
 亡くなった直後、何冊かに分かれて出版されていたこの「吉野朔実劇場」を一冊にまとめたのが、『吉野朔実は本が大好き』である。

 冒頭のエピソードからして、一読、様々な思いがこみあげてくる。
「『咳をしても一人』という自由律俳句があったのを思い出したのだが、それが誰の作なのか思い出せず、友人と、どっちが先に詠んだ人を探し当てられるか競争をすることになる」
という話だ。
 吉野さんは、本屋を駆けずり回って「俳句や詩のコーナーが狭い!」と途方にくれたり、友人に尋ねて「そういえばあの本に載っていたような」と言われてその本を探しに行って別の本を見つけてしまったりと、何とも愉快なドタバタ劇を経た末にようやくその句(と作者)を見つけ、その場に居合わせた編集者に証人になってもらった上にコピー機とFAX(!)で相手にそれを送付する。

 そう、2023年の日本では何もかも成立しないエピソードなのである。
 まずそもそも、「あの句誰だっけ」という疑問が、一瞬で蒸発する。そういう答えを見つけてくるツールに事欠かないからだ。
 今だったら、何かの面白企画として「GoogleもChatGPTも使用禁止っていうルールでやろうね!」と〝わざわざ取り決めて〟過程がリアルタイムでTwitter(じゃないけど)やらインスタライブやらで「実況」されて、その様子がまとめられたりするのだろう。最後に相手に送る勝利宣言は、もちろんLINEかチャットだ。
 ツールが違うだけで今でも成立するか?と思いそうになるが、それはコンテンツパッケージとしてできあがった形に綺麗に整形されたやりとりである。

 とはいえ、このエピソードも、最後は吉野さんが精神科医の春日武彦さんにこの話をしたら瞬時に正解を言われてしまい、「よかった先生に訊いてたらネタにならないところだった」と思ってしまう自分にツッコミを入れるところでオチる。つまり、彼女自身がこういう「日常をオタクっぽいエンタメにする」という感覚にすでに自覚的だったのだ。
 こういう感覚が発展し成熟し爛熟したのが、今という時代なのだろう……と、ありきたりな表現だが実感する。
 この本は、「ネット以前からネット黎明期にかけての、古参のオタクだけが作ることができた、濃密な空気と関係」に満ちている。戦後収録された古典落語の録音を鑑賞しているような気分。

★★★

 正直に言うと、後半になっていくにつれ次第に内容が「薄まっていく」印象がある。
 他の人の感想を読んでもそう言っている人が全然いないので、たぶん私だけが感じるものなのだろうが、後半はだんだんとページをめくるのが億劫になっていってしまう。
 前半は、バリエーション豊かな様々な人物の視点や感想や本が入り乱れて化学反応を起こしていくのだが、後半は出てくる交流人物が穂村弘さんと春日武彦さんにほぼ固定してしまい、エピソードのふくらみがあまり感じられない……というのが大きな理由ではあるのだろう。

 だが私が思うに、もともと吉野朔実さんという作家は、バリエーション豊かなアイデア・視点を次々思いついて様々に展開させていくタイプの人ではなくて、かなり限られたいくつかの素材を辛抱強くリフレインしていくタイプの人なのだ。
 彼女の作品においては、作品が違っても共通のモチーフが繰り返し使われている。少ない音数・限られたメロディを徹底的に展開しようとするベートーヴェンみたいな作風だ。
 フィクションでは文学的ですらある厚みをもたらすそのスタンスが、エッセイというジャンルでは退屈さに繋がってしまう。語っても語っても「前の話の繰り返し」という感覚から抜け出せないのだ。後半、様々な工夫でこの繰り返し感を払拭しようという試みを感じるのだが、正直あまりうまくいっていないと思う。
 後半で一番輝きを放つエピソードは、デヴィット・ボウイの逝去を知った彼女が、青春時代に彼に熱狂した思い出を語る話で、それは「本という予防線」ごしに限られた人物・視点・自他の経験を繰り返し取り上げる他のエピソードにはない、血が出そうに生々しい感覚をあえてそのまま開陳している新鮮さによる。
 だがこれは、本来の吉野さんの作風ではないのだろう。

★★★

 吉野朔実さんという作家には、前時代のオタク(というより「知識人」と呼ばれるような、今は死滅寸前の存在)だけが持っていたコミュニティ、「興味(≠趣味/嗜好/推し)の重なる信頼できるたくさんの友達と、ちょっとした理由をつけてリアルに集まって、美味しい食べ物と飲み物を囲みながら、時間を忘れてあれこれと語り合い、別れた後にオススメの品を宅配便で送り付ける」ような時空が不可欠だったのではないか。
 それは、ひとつのテーマに頑迷なまでに真摯に繰り返し取り組まなければ気が済まない誠実なタイプの作家が、自家中毒にも不毛な退屈にも陥らず、常に新しい視点や発想によって自己を攪拌させる時間で、それによって彼女は「同じモチーフだけれど常に新しい」作品を作り続けられたのではないか。

 彼女は2016年に突然病気で亡くなってしまい、その逝去は今も多くの人に嘆かれているし、私も残念だと思う。一方で、心のどこかで、「今の日本に、彼女のいる場所はあるだろうか」という残酷な恐怖をうっすらと覚える。
 『吉野朔実は本が大好き』に出てくる友達とのやりとりは、今のネットコミュニティの標準とはあまりにも違う。
 もしかしたら、本当の意味での「古き良きオタク」を体現していたのが吉野朔実さんであり、その死は期せずして小さな時代の終わりそのものを意味していたのかも知れない。なんて、ずいぶん大げさで失礼な妄想なのだけれど。

 

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?