『桜は何の象徴か』 見られる桜も見られない桜も
一斉に咲いて散り急ぐ姿は、美しいと同時に、圧力に見える時もある。
今年に入ってずっと、「中井久夫集」を読み続けているのですが、先日その3巻の『世界における索引と徴候』を読み終えました。
この中に、「桜は何の象徴か」というタイトルのエッセイがあって、5ページくらいのごく短いさらりと読めるものなのですが、今の季節にぴったりというだけでなく、妙な符合を勝手に感じてしまったのでした。
中井久夫さんが、信州の高遠に行って桜を見た時に聞いた話をもとに、桜の持っている性質からそこに日本の象徴を見てしまうことについて、様々に展開する内容です。
桜は、水が豊富で肥料をたくさん与えられて怠りなく手入れされていれば、本来は散り急ぐことはなく、たっぷりと咲いて花はずっと長く続くのだと。
散り急ぐのは、あくまで栄養もなく条件の悪いところで咲かねばならないからで、その姿を自分の象徴と感じた人々の心の辛さを思いやると同時に、それを桜の本来の姿と思うのはどうかと中井さんは述べます。
また、桜は切ると弱るけれど、広いところに植えると枝を好き放題に広げ、アロレパシー物質を出して他の植物を枯らし、根元に腐った実と毛虫を大量に落としてしまう――「図に乗って縄張りをひろげ、その傘の下にあるものを枯らし、汚いものを降らせ、さりとて伸びるのを阻むといじけて哀れっぽく特殊事情を訴える」という象徴にもなりかねない、と締めくくっているのです。
中井さんが好きだと言う桜は、群生することのない山桜で、窪地にひっそりとしかし優雅に立つ姿を讚えています。
★★★
桜は日本人に愛されるあまり、本当に色々な品種があって、また色々なところで咲いています。なので、条件の悪いところにたくさん植えられて一斉に咲いて散る桜もあれば、周囲の人に大事にされて肥料ももらって長く咲く桜もあり、人のいないところでひっそりと自分だけ咲いている桜もあります。
昔の吉原では、桜の季節に他から咲いた桜をその季節だけ持ってきて植えて、花が終わると引っこ抜いて別のものを植えるという無茶な乱暴をやっていたそうですが、今でもありそうな話で胸が痛みます。
一斉に咲いて一斉に散っていく桜並木を見ていると、なんだか同じ時に同じことをみんなでするという象徴にも見えてきます。同調圧力と言えば嫌な感じだけれど、その光景にある種の美しさと安らぎすらあるのも事実です。
人里離れた山の中でひっそりと咲く山桜の、どんなに綺麗に咲いてもまったく誰も見ることなく散っていく姿を、何の否定的感情も交えずまるごと受容できる人は、決して多くはないでしょう。本来は、それが桜の在るべき姿であったとしても。
自分のあるべき本来の姿を取り戻して、個性を発揮しましょう。そう思って、本当にそれを追求していったら、誰も見ないところで何の利益にもならないことを神様相手に淡々と続けることになりました。そんな人が、たぶんたくさんいます。
一方で、自分の遺伝子や性質を100%発揮することはかなわなくても、条件の合わない恵まれないところで、とりあえず周囲の人と流れを合わせて懸命に生きていくことを選んだ人も、たくさんたくさんいます。
そして決して多くはないけれど、地の利と人の愛に恵まれて、大事にされて、美しい花を長く咲かせることができた幸運な樹もあります。
まあ、実際には100%山桜や桜並木という人はいなくて、みんなそれぞれ少しずつ、山桜要素も桜並木要素も高遠桜要素も持ちながら生きていくのだと思います。
だからどの桜も、見るとわれわれの心を妙にざわつかせてしまうのでしょうね。
今年も、出会った桜を見上げながら、アロレパシー物質を無駄に出したりしないで他の樹とも共存して生きていこうと思います。
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