永遠の子どもたち

* 英訳が「Asymptote Journal」に掲載されました。「かぐやSFコンテスト」選外佳作の作品です。

 窓の外に気配を感じたとき、消灯時間をすぎてからすでに一時間ほどが経過していた。にもかかわらず、その人はまだ眠れていなかった。いつもなら、布団をかぶればすぐに寝入ってしまうのに。
 カーテンの隙間から外をのぞいてみるか否か、その人は逡巡した。こんな時間にまだ起きていると誰かに知れたら、面倒なことになりかねない。それでも結局見ることにしたのは、どうせ明日になれば卒業なのだから、知ったことか、という思いが胸をよぎったからかもしれない。その人はざらりとして厚みのある、ベージュのカーテンに手をかけた。
 気配の正体は、A一だった。
 中庭の中央にある池のまわりで、A一は踊っていた。
 細く長い四肢で暗闇をなめらかにかきまわし、そこらじゅうを自在に駆けずり回る。その様子は子どものような無邪気さと、他者の介入をゆるさない芸術作品のような繊細さと、矛盾するようにも思えるそれらを同時に感じさせた。
 無意識のうちに、その人は息を止め、A一の踊りに見入っていた。

 A一は、長らく特別な生徒だった。成績の総合順位によって、本来ならばクラスと出席番号は毎年入れ変わる。
 しかし、その人の知る限り、A一はずっとA一であった。
 A一がA一でいるあいだに、その人はE五になったり、G二十になったり、少しがんばってC三十二になったり、てんでダメなときは、J十二になったり、した。

 踊りを終えたA一は、首にかけたタオルで額の汗をふいている。その人はいつまでも、カーテンを閉めることができないでいた。このまましばらく待っていたら、A一がふたたび踊りはじめるのではないか、そう思うと、興奮してますます眠れそうもなかった。
 しかし、A一は踊り出すそぶりをみせないまま、ゆうゆうと中庭を横切ると、その人のほうへ向かって歩いてきた。しばらくすると、その人の部屋の窓の前にA一が立っていた。
 その人は窓を開けた。
「邪魔してごめん」
 こちらこそ、とA一は言った。こんな夜遅くに。
「少し、誰かと話したい気分で」
 A一も誰かと話したい気分になることがあるのだ、ということが、その人にはしみじみと意外だった。そしてその話し相手として自分が選ばれたことに——もちろん、こんな時間に起きてカーテンから顔をのぞかせていた唯一の人物であったからにほかならないとは知りつつも——一抹の誇らしさを覚えながら、言った。
「ダンス、とても素敵だった」
 A一は笑って、
「最後の晩くらい、少しは気の向くままに動いてみたくなってね」
 それを聞くとその人はいっそう、A一への共感を強くした。卒業前夜、A一のような優等生の心のなかといえば、この日まで学業をまっとうした達成感や、明日から社会へ出てゆくにあたっての使命感のようなもので満たされているものと思っていたが、そういうわけでもないようだ。
「明日になったら、ついに自由の身だ」
 晴れ晴れとした顔で、A一は続ける。その人も、
「好きな服が着られるしね」
 と、同調してみる。明日からやりたいことは、いくつでも挙げられた。
「化粧もできるし」
「おやつだっていくらでも食べられる」
「夜更かししても怒られない」
 顔を見合わせて、くすくすと笑った。
 ああ、でも、とA一は少し寂しそうに、
「あれが食べられなくなるのはいやだなあ」
「どれ」
「ほら、たまに食堂で出る、肉と野菜が入ったシチューみたいなのを、ごはんにかけて食べるやつ」
 A一の描写を受けて、すぐにひとつのメニューがその人の頭に浮かんだ。その人にとってはべつだん特筆することもない、数ある夕食の献立のうちのひとつだった。そうか、A一はあれが好きだったのか。
「じつはね、私は明日からも、ときどきあれを食べられるの」
 そう言ったその人を、A一は目をしばたたきながら見た。
「留年でもするの?」
 ううん、とその人は首を横に振る。
「私は明日から、ここの先生になるんだ」
 口に出してみると、「先生」という響きはこそばゆく感じられた。ああ、なるほど、とA一は歯を見せて笑った。
「それじゃあ、あなたはこれから先、ずっと死ぬまでここにいるってわけ?」
「おそらく」
 A一は両手の人差し指と親指をLの字にまげると、ふたつを組み合わせて長方形のフレームをつくり、そのなかにその人を収めて、ためつすがめつした。
「ふうん、悪くないかもね」
 それに、これからもシチューを食べられるのはうらやましい、とA一は付け加えた。
「A一は、明日から何になるの?」
 たずねてから、その人は気まずい気分になった。A一はその人を「あなた」としか呼ばなかったのに。しかし、心配は無用だった。A一は、知らない人からさえも「A一」と特定されて呼ばれることに、すっかり慣れきっているようで、意にも介さなかった。
「私は世界のシステムをつくる人になるよ。絶えず観察と計算を繰り返して、システムを直しながら、守る人」
 それはA一にふさわしい仕事に違いない、とその人は思った。なぜって、A一は「A一」なのだから。
「さすがだね」
 その人は言ったけれど、A一は黙り込んでいた。それでその人は続けた。
「A一はずっと、誰よりも成績優秀だったもんね。世界のシステムを守る人があらゆるものに精通しているってことは、私も含めて、システムを構成する人たちにとってはとても安心できることだよ」
 A一はそれでも何も言わないまま、肩のあたりを窓にもたせて、右手に持っている小さな細い枝のようなものを振りながら、その先っぽあたりを見つめていた。それから、
「あなたは、こうじゃない世界について考えることはない?」
 ふと、A一はたずねた。
「こうじゃない世界?」
「そう。たとえば、家族というシステムがあった世界」
 そう言われてその人は、かつて教科書で見たことのある古い写真を思い出した。
 そこには大人が二人、子供が二人、そして大人に抱かれた赤ん坊が一人、計五人の人間が真面目な顔で正面を睨んで写っていた。たしか、赤ん坊を抱いて座った成人女性が「母」、その肩に手を置いて立つ男性が「父」というのだった。
 世界がかつてこうした「家族」というシステムにより成り立っていたことはその人も学んだが、あくまで教科書に載っているだけの、遠い時代のできごとにすぎないと思っていた。
「A一は、その世界をうらやましいと思うの?」
 その人がたずねると、A一は「わからない」とつぶやいた。
「ただ、システムが変わっても、私たちのからだはかつての時代の名残を残したままでいる。そのことが、少し不思議なんだ」
 A一の言葉を聞いて、その人は自分のからだを見下ろした。遠くに見える足の指先、窓枠にかけられた、平均よりやや小さな手。そして胸の上にある、ふたつの小さな丸いふくらみ——かつては特別な意味を持っていたもの。
 A一のからだは、極端に四角くも、丸くもない。生殖器がついているはずだが、その人のものと同じか、違うかはわからない。他人にそれをたずねることは暗黙のうちのタブーとされていたし、その人自身、知りたいと思うことはなかった。そもそもどちらであっても、特に意味のないことだ。今となっては何に使われることもなく、元生殖器と呼ぶほうがふさわしいくらいのものなのだから。
 物憂げな表情のA一に、大丈夫、とその人は言った。
「悩みや迷いもきっと、あなたがよりよいシステムを構築するのに役立つ。けっして無駄なことではないはずだから」
 それを聞いたA一は少し笑った。
「あなたは悩んだり、迷ったりしないの?」
 A一の問いに、その人は考える間もなく首を横に振る。
「こんなふうにして、生きて死んでいくのって、すごく楽だなと私は思う。もし自分に何かがあって死んでしまっても、人間は続いていくじゃない」
 その人は思い浮かべる。すると腹の底から、じんわりと温かい何かがふくらんでくるような気がする。たとえば明日、一緒に卒業するたくさんの仲間たち、それから学校に残る一年下、二年下の後輩たちのこと。ほかの学校で同じように学ぶ、顔も知らない無数の子どもたちのこと、そして——。
 それはその人が明日からの毎日に、とくべつ楽しみにしていることのひとつだった。卒業してからは月に一度、学校に自分の生殖細胞を預ける。それは、また別の誰かから提供された生殖細胞と引きあわされ、また新しい人間となって、学校で学び、この世界を、システムをつくる一部となる。営みは限りなく繰り返され、私たちはいつまでも、どこまでも続いていく。
「そうやって永遠が約束されているから、私は不安になることなく生きていけるの」
 A一を見つめていると、今やその人の腹から胸にかけてをたっぷりと満たしている、世界をかたちづくるすべての「私たち」への思いが、ひそやかに指の先まで広がっていくようだった。
「あなたのような人もいるんだね」
 と、A一はつぶやいた。たしかに、あなたは先生に向いているのかもしれない。
 A一は、あくびをひとつした。穏やかな表情を浮かべていた。
「あなたと話していたら、なんだか、やっと少し眠くなってきたみたいだ」
 心地よい感情の波を胸に抱きながら、ゆっくりおやすみなさい、とその人は言った。その口からも、すぐさまあくびがこぼれ出てきた。人から人へ、あくびは伝染するものらしいとは、これもいつか学校で習ったことのひとつだ。
「おやすみなさい」
 A一が言い、その人もふたたび告げる。
「おやすみなさい」
 A一は背を向けた。白いシャツに包まれた肩甲骨は、まるで天使の羽のようだった。A一はふたたび中庭をゆっくりと横切ると、建物のエントランスへ消えて行った。その後ろ姿が闇に溶けてしまうのを、その人は見送った。
 空には月が出ていた。満月だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?