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塩むすび、からの、梅干し。

本日のお昼ご飯は、塩むすび。

好きなおむすびの具は、たらこ、昆布、菜めし、鮭、しぐれ、梅じゃこ、じゃこ紫蘇ごま、おかかチーズもスキ。

むかーし、むかし、当時の付き合っていた彼がおむすびを作ってくれて・・・、ってどういうタイミングでおにぎりを作ってくれることになったんだろう???


それは忘れましたが、おむすびの具が、おかかとチーズで、その時初めて食べたけど、結構美味しくて。

おかかに軽くまぶした醤油の塩っ気と、プロセスチーズの歯にくっつくような、もたっとした、まったり具合が妙にマッチしていて、自分好みだったので、何かの機会に会社の同期の子たちへ作っていったら、これがまた不評で、不評で(笑)。

結構長い間、あの時作ってきてくれたおむすびがさぁー、って何度もいじられた。


おかしいなぁ、美味しいのにな。
って、まぁ、好みですね。

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で、おむすび。

具アリもスキですが、具なしの塩むすびもスキで、呑みの締めにラーメン、ではなく、私の場合は、塩むすびと赤だし、が、いつもの締め。

お腹がいっぱいなのに、最後は、ほかほかごはんで作った塩むすびとパリッパリの香ばしいお海苔と赤だしで終わらせたくなる。

赤だしの具は、リクエストできるのならば、豆腐。
あさりの赤だしもスキだけど、締めには豆腐かな。


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今年初めて梅しごとをしたのですが、noteを拝見していると、記事にされている方や、私と同じく今年デビューの方、毎年の事過ぎて今年は記事にされていなかったり、コメント欄でお見かけしたり、と、結構皆さん毎年梅しごとをされているようで。

梅シロップ、梅酒、梅ジャム、梅干し・・・。


ま、私の場合は、梅シロップと日本酒で作った梅酒で、梅干しまでは手が出せていませんが、梅干しと言えば、おばの家に遊びに行った時に見た、赤紫蘇がこんもりと盛ってあった竹ざると、縁側の新聞の上にごろごろと広げてあった梅を思い出します。

その頃は幼稚園児だったのかな? 4歳か5歳で、たぶん初めて見たであろう、濃い赤紫っていう、不思議な色の、葉っぱのような赤紫蘇。

食べれるの? 美味しい、の? って思ったような気もする。

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おばの家で、はじめてみた、梅の実と、赤紫蘇、梅干しづくりの準備の様子でしたが、おばは、とても働き者で、面倒見がよく、なんでも作ってしまうような人でした。


田舎の農家で兄弟姉妹が7人、幼い頃に亡くした兄弟が2人いたので、兄弟姉妹9人の長女だったおば。

中学を卒業して、住み込みの女中として働きに出たそうで、気配り上手で、料理も上手。愛情豊かで、明るくて、面白くて、ちょっと皮肉っぽいツッコミやいじり、豪快な笑い、盆正月の親戚の集まりでは、いつも笑いの中心でした。


男兄弟の中で末っ子三男だった弟の父の事も、とっても可愛がってくれていて、車に乗れなくても、電車を乗り継ぎ、よくうちにも遊びに来てくれていました。


父が療養中の時も、プロポリスがいい、●●がきく、と栄養補助食品などや、手作りの足枕を作って持ってきてくれたり、動かなくなった父の足をずっとおしゃべりしながらさすってくれたり、看護疲れの義妹の母を休ませて、労ってくれたりと、随分と助けてもらいました。



そう言えば、たぶん、初めて見たパンダの記憶は、おばの作ったパンダのぬいぐるみだったような・・・。
枕になりそうなくらい大きなぬいぐるみで、私のピンクのくまさん大好き!の、次の時代に好きだったなー。写真にもよく登場してたわ。
色々と作ってもらってたな。

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晩年は四姉妹の中でどうしてか仲が悪くなり、おばは一人なんとなく浮いていたようです。

うちも父が他界して、段々と母も記憶力が低下し、お電話はいただいても、母から連絡する事は減り、そうこうしている何年後かに、おばが他界したと連絡が入りました。



仲の良かった姉妹がバラバラになり、淋しかったんじゃないかな、なんて勝手にうっすらと想像していましたが、告別式で、お孫さん、ひ孫さんたちの様子から(って、姪っ子たちですね(笑)、おばあちゃんが大好きだった事が伝わってきて、私のとんでもなく浅はかな想像とは違い、とてもとても幸せだったんだな、と知りました。


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おばの夫、おじは、とにかく無口で、私、たぶん一度も喋った事がない、記憶ない・・・ってくらいのおとなしい人。

私以外とももちろんほとんど喋らず、話しかけられても頷く程度で、感情を表に出さず、感じも悪くなく、でも、ちょっと神経質そうで、おばとは正反対だったので、よくおばは冗談にしながら愚痴ってました。




おばの家族は、無口な夫と、優秀で美しくてしっかり者の娘、そして、息子の4人家族。

娘も息子も、私のいとこになりますが、いとこといっても、20歳くらい離れているため全然接点がありませんでした。

息子は今で言う、引きこもり、ニートで、存在を知った時にはもう、バリバリの引きこもりでした。
50年近くも前の話なので、引きこもり、も、ニートって言葉もなかった時代です。


理由はなんだったんでしょうね、よくわかりません。大人は根性なし、みたいな事を言っていましたが、繊細だったのか、割と賢くていいところへ就職したのに、すぐに辞めてしまい、それ以来ずーーーっと家に居たようです。

遊びに行っても、部屋から出てきたことはなく、一度、部屋に様子を見に行ったことがありますが、その時見た初いとこは、線が細く、俯き加減で口数も少なく、聞いた声も小さく、まぁ、よく言えば、優しい感じの人でした。



そんなこともあって、おばの人生を大変だっただろうな、なんて勝手に思っていましたが、小さい頃の記憶と、直接やり取りがなくなっていた私の見ているおばの一面なんて、ほんのわずかにすぎず、そんな事で思い込んでいただなんて、とんでもなく失礼だったな、と猛省すると同時に、あぁ、よかった。幸せでよかった! と告別式では悲しみと一緒に心が温かくなり、安堵しました。


勝手に大きな勘違いをして、おばさん、ごめんね。

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そういえば、いとこ、どうしてるんだろう?

おばがいなくてやっていけているんだろうか?




おばがそばで見守って・・・・・どころか、まだ面倒を見ているかもしれないな。笑






梅干しから、久しぶりに思い出したおばのことをつらつらと綴ってみましたが、何にでも自分の見えるところだけじゃなくて、見えないところもいっぱいいっぱいあって、ちゃんと想像力を使わないとな、って、また、あらためて思いました。






お付き合いいただき、有難うございました。





ではでは、また。






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