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岡崎の大正池 ”小呂池” と道根往還

あぁ、最低でも週に1回は投稿しようと思っているのに、前回から1週間以上たってしまっていて、noteさんからも、「16週連続投稿えらい」みたいなコメントを戴けなくなってしまったよ。くすん。

やっぱ書くのが苦手だから、つい後回しにしてしまったり、現実逃避してしまうのか? 特に言いたい事もないからなのかね? というか、だからなに?って思うよねー、とか考えちゃうからなんだろうか? ぶつぶつ。

ま、そこは、また自分の中で考えるとして、

今日は、岡崎の大正池こと、 "小呂池(おろいけ)" に行ってきたことなんぞ書こうかな、と。


色々絡まってて、頭の中でまとまりきってないけれど、とりあえず書いちゃえーっ。

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今年に入ってからくらいだろうか、オットが「”小呂池”って知ってる? 気になる。行きたい。」と言い始めた。

私も ”小呂池” なんて初めて聞いたので「知らないなー。その名前からすると、あのへんかなぁ?」なんて軽く付き合ってみるものの、特に興味もなく、ムーディー勝山の如く右から左へと聞き流していたのだけど、オットは、コツコツと昔の事をよく知っている方たちに聞いては、地道に情報を集めていたらしい。

けれど、この辺りの事に詳しい年配の方たちも、どうやらその池の事は、名前すら誰一人として知ってる人はおらず、結局、自力で見つけたみたいだ。

自分もDuckってみたら、すぐ出てきたよ。なんだそれ。笑


道根往還

” 小呂池 ” は、通称「岡崎の大正池」←初めて知ったよ! と呼ばれていて、道根往還(どうねおうかん)という、岡崎市の東公園の入り口付近の「欠の三本木」から、岡崎北部の鍛埜町(かじのちょう)にあった「鍛冶屋の五本松・馬頭観音」に至るまでの、全長約10kmの古道の途中にあることがわかりました。


で、GWにこの ” 小呂池 ” に行ってきました。

東公園の東駐車場に車を止めて、公園とは違う方向の山道へいざ出発。

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道しるべが所々にあるのでわかりやすい


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駐車場をあがったところにいらっしゃるお地蔵さん


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北へ登っていきます。
カップルが乗る数台の車が進んでは、また戻ってきます。
車では行きにくいのか?
それとも、特に何もないのか?


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ジャノメチョウが途中まで道案内してくれたよ。
って一本道だったけどw


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これ、なんの門柱だったんだろう?
・・・寺って彫ってあるけど、この先はわさわさ笹が生えててよくわからず


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おぅ!
この橋!
まさかっ!


実は、ずっと気になっていた橋がありまして。


その橋、高速道路の上を横断する橋のように、山を越える道の上にかかっているのだけど、利用している人や車を見た事がほぼない。
てか、もしかして一度もないかもしれない。

片側は大きな公園、もう一方は山。民家も見当たらないから、使う人もあまりいないのかもしれない。

ん?
そういえばこの橋、ちょっと通らない間に改修工事されて結構立派な橋になっていた。
利用する人がほぼいないのになぜ改修?
もしかして、利用する人は少なくても、利用する人がとっても偉い人なのか?
それとも、自分の知らない間に実は物凄くたくさんの人に利用されている? 

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西側からこの坂を車でぐうぃ~んと走ってくると


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まぁまぁ立派なこの橋が現れる

そして、橋をくぐって東の方へは、市民病院、美術館、総合グランドへと道は続く。


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気になりながらも、いつかわかればいいや、くらいの気になり具合で、たまにこの橋の下を通る時に、「あぁ、今日も誰も使ってないなー」と見上げるくらいだった、この橋。

ついに、この橋の事がわかり、渡ることになったよ。ひゃー。

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橋から見上げた空




この橋を渡って、しばらく進むと、池らしきものが見えてきた。
近づくと、「私有地」となっていて、近づくことはできない。

も、別のところに道が出来ていたので、ちょっと行ってみる。

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どうかしら? 大正池っぽい?


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この枯れ木の感じは、まぁ、大正池?


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こじんまりとしているけど、キレイ


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亀の甲羅干し。ほのぼの


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水かがみ


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もう少しすると、蓮がもっと咲き乱れるのかな


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対岸へ行ってみる


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逆光、眩しい


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帰り道、ヤマガラの声がして、探してみたらいたよ


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ボケてるけど、こっち見てる。なんて可愛いの♥


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駐車場に無事戻る





時は遡り、1575年長篠の戦。


徳川家康から長篠城を託されていた奥平貞昌が武田軍に攻囲され、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況になり、奥平貞昌が最後の手段として、家康のいる岡崎城へ援軍要請のために使者を送ろうとするが、武田軍に取り囲まれている状況で城を抜け出し、岡崎城まで援軍を要請する事は不可能に近く、行くものも命がけ。どうする、どうする?
見つかったら即刻惨殺だよ、きっと。


で、この困難な役目を志願したのが、鳥居強右衛門。

彼は、夜、城の下水口から川を潜り、武田軍の警戒の目をくらまし、無事に脱出して包囲網を突破。山中を走りに走って、翌日には岡崎城に辿り着き、援軍の派遣を要請しましたが、既に徳川軍が援軍を準備をしてくれていた事を知り、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、休んで行けよ、っていう声も振り払ってすぐに長篠城へ引き返します。

ところが、あぁ、鳥居強右衛門!
あと少しのところで武田軍の兵に見つかり捕らえられてしまいます。

厳しい取り調べによって、家康軍の援軍が向かってくる予定だと知った武田軍は、強ちゃんに「援軍こないよ」っていう偽の情報を城へ伝えるように言います。

こうしたら、援軍が来ないから諦めて城を明け渡すんじゃないか、っていう武田軍の筋書きなんだけど、強ちゃんは表向き従う風で、でも味方に伝える時に偽りの情報ではなく、「援軍はくるよーーー。それまで持ちこたえてーーー!」って叫びます。



この強ちゃんの決死の報告のおかげで、貞昌や長篠城の城兵は士気を奮い立たせ、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功したのです。

強ちゃんはその後、磔にあったとかあわなかったとか・・・諸説あり




で、この時に、強ちゃんが長篠城から岡崎城へ走った道の一部が、この道根往還なんだそうです。

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岡崎城(確か、岡崎城内にも鳥居強右衛門の磔の絵があった気がします)


道根往還がそんな昔からある、歴史ある道なんだと思うと、歩いてみようかな、っていう気になります。

小呂池へ向かう途中で、トレランしてる方々もいました。

全長10.7km、往復22km弱。時間にして、3時間くらいなので、ちょうどよいハイキングになるかもしないね。

これから暑くなる一方なので、涼しくなったら行こうかな。




興味がわいた方、よかったら歩いてみて下さいませー。








長々とお付き合い、有難うございました。








ではでは。



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