まずは自分の気持ちを理解することから練習

心療内科の先生が言うには、普通の人は避けて通るような人に私が疑問を持たないと言う
ストライクゾーンが広いと先生は言うけど、体感的には、デットボールが好きなのかもしれない。
球筋が読めない人は実際おもしろい。
予測不能な行動は、スリリングで、退屈しない。デットボールくらっても、気づいてなかったことが問題だったようで…
「鈍いですねー。ここまでいくと病気ですね」
モラハラさんに言われた言葉ですけど、まあ、これすら褒め言葉として受け取っていた自分がめでたい。

先生が言うには、感情に蓋をしているとのこと。痛い事を痛いと感じてない。麻痺している感じだとか…
「あー鎮痛剤みたいなもんか」
と思った。整形外科の先生が「痛み止め打ったから痛くないだけで治ってないから。痛くないからって調子に乗ってたら拗らせるから、痛みは痛みとして感じた方が本当は安全なんだよ」

あれは名言だったんだなと、心療内科で整形外科を思い出しながら、痛みを痛みとして自覚する事の大切さを実感。

そもそもいつから鎮痛剤打ってたのかと考えるとそれは、幼少期に遡る
今の世では「虐待」という名をつけられるかもしれない。私は、何でもかんでも「虐待」と言う事に抵抗があるので、それはつけたくないんだけど、
考えると殴られることが虐待ではなく、いじめの話でよく出る「いじめてる奴より、まわりで加勢してくるやつや傍観してるやつ、笑ってるやつの方に傷つけられた」という話と似ていて、どっちかというと私の麻痺は、殴られる肉体的痛みより、まわりに対する鎮痛剤が発動してたと思う。

誰が敵なのか味方なのか区別がつかない

幼少期から思春期までの間、私は「いつ何が起きても大丈夫」という身構えを常にしているサバイバーになった。
「想定の範囲」内にあれば、大抵のことは対処できる。その想定の範囲は、様々な経験から「今、ここで強盗が入ってきたら…」までも想定の範囲にまで及び、常に危険を想定していたので、血生臭いことにも冷静に対処できた。事故、事件、火事オヤジまで。

「この世はそんなに危険じゃないよ。安心して」

先生が言った。「まーねぇ」と笑いながら返したけど、これも問題のある思考パターンのひとつ

話を戻すと「痛みを痛みとして理解して避ける」事の練習ね。モラハラさんに言われた言葉
「自分でやっといて何だけど、お人好しにも程がある。いい人を通り越してバカなの?少しは断ったり怒ったりした方がいいよ」

「お前がそれを言うのか」と笑えて、幸せな気持ちになった。あんたが心配してるほど、私、怒ってないし我慢してないんだけどねと思ったんだけどね。
ただ、それは、モラハラをしてしまう人にとっては、停止線を示してないということで、エスカレートしていくものだということは、後で知る事になる。心理学的に言うと、まあ、ピッタリハマるんだよね。心理学の本を読み進めていくと、まあ、両者ある種の発達障害のよくあるパターンに合致していて、ある種、良くも悪くも相性が良い。
先生に「私、発達障害ですか?」という質問には、まだ返球はない。発達障害らしきものは、後天的な要素で似たような症状も示すとか(これは本に書いてた)

モラハラさんとの会話は一方的なドッジボールだった。こっちが投げた球はスルーで、かえってくることはない。一方的に投げつけられ、球幾つ持ってんのよ!というくらいの球数。私は穴だらけになった。
ただ、痛みを感じてないので、避ける事をしない。どころか、あたりに行く。
逃げたら、相手が傷つくんじゃないかとそっちばかりが気になって…というのも、心理学的に言うと、酒乱家庭によくあるパターンらしい。
「私がわかってあげないと」的な…歪んでんなぁ。私の他者容認思考。多分、モラハラさんがエスカレートしたのも、別の意味では私のせいよね。

「まずは、自分の痛みに気づこう」

意外とコレって難しくて、痛いのをすぐ「痛い!」って言える人に魅力を感じたりもする。
痛いって思わないんだもの。何が痛みなのか分かわないんだもの。雲を掴むような作業。
「どうしたら分かりますか?」
先生に聞いてみる。まずは簡単な事から。
「寒い」「暑い」から始めて、「楽しい」「嬉しい」は本当にそう感じてるのか確認する。コレやってみると、実は、私ほとんど「楽しい」「嬉しい」と感じる前に、相手の求める答えを当てにいくのが先にある場合がほとんどで実際は楽しめてない。
自分が本当に喜びを感じてる時って、全部、ひとりで、そこには、誰も存在してない事を発見した(現時点)私は、1人が好き。寂しいけど、かまちょだけど、でも、自分のペースで好きにできるひとりが好き。(現時点)この当てに行くより、自分がどう感じてるかを優先して他人といて本当に心の底から笑えた時、それは、めっちゃ幸せなんじゃないかと想像する(現時点)
おそらく未体験ゾーンだ。
人生後半に来て、人より喜びの伸びしろの多さに勝った気がしている。自分がめでたい。後天的なマイナス要素をとりのぞくと、本来の性格は、相当おめでたいんだと思う。

脳内鎮痛剤の効き目が強すぎて、患部はどんどん悪化している事に気づかずに、ここまで来てしまった。心臓発作を起こして「先生、私、死ぬかと思ったわ!」「いやいや、あなた死ぬとこだったんですよ」ってところまで来て、人間簡単にぽっくりいけるほど甘くなくて「死ぬかと思った」は、想像以上に苦しくて痛くてしんどくて気持ち悪くて、もう二度とあんなの味わいたくないなぁと思う。
これって、心臓病じゃなくて、人間、ストレスで死ぬって事なんだよ。

まだまだ行けると思ってた。頑張ればできないことはないと思ってた。こんくらい苦労じゃない。こんくらい痛くない。こんくらいこんくらい…そうじゃなかったんだよ。
今日全然がんばれるんだろうけど、疲弊して少しずつ削り取られていくもので、ちゃんと日々を回復する。それが、長期的にちゃんと生きるという大切な戦略である事を。一病息災とはよう言うたもんだ。



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