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英語学習記録#10

教材名:Penguin Readers Level4
「Women who changed the world」

Chapter9 Women and sport

 女性がスポーツ界に参入したのは19世紀に入ってからのことだ。当時、ゴルフとテニスは女性が遊ぶようになっていた。最初のオリンピックは1896年にギリシャのアテネで行われたが、その時は女性の選手はいなかった。女性選手が参戦したのは、1900年のフランスのパリで行われたオリンピックからである。しかし、19カ国997名の選手に対し、たった22名の女性選手しかいなかった。女性はわずか5競技のみ参加した。セーリング、ゴルフ、馬術、テニス、クロッケーである。
 徐々に女性の競技がオリンピック内で増えていった。1928年には女性の運動競技が開催された。1948年は英国ロンドンでオリンピックが開催され、女性が参戦する競技が増えた。男性が誰を参加させるかを決めた。
 ロンドンオリンピックに参加した有名な女性の一人がフランシナ・ブランカース=クンという、オランダ出身のアスリートだ。彼女は30歳で子供が2人いる。人々は彼女を「空とぶ主婦」と呼んだ。彼女はロンドンオリンピックでメダルのほとんどを取るほどトップ女性選手となった。
 ファニーは1918年にオランダの小さな街で生まれた。彼女の父親は政府で働く一方で彼もまたアスリートであった。5人兄弟のいる彼女は幼い頃からスポーツが得意であった。彼女は何の種目を選ぼうか決められなかった。彼女の先生からランナーになることを勧められ、ランナーとして結果を出した。
 ファニーは若い時に多くのレースで勝利をおさめた。しかし、1948年、彼女が30歳の時は多くの人々が彼女がベストを出せるには歳を重ねすぎていると思った。他にも、彼女の旦那と子供の面倒を見るべきだと言われた。しかし、ファニーは1948年のゲームに参加し、2つのレースで勝利を収めたのだ。彼女がオランダに帰国した時、オランダ人はとても喜んだ。彼女はみんなに証明した、主婦をしながら金メダルを取得できることを!1999年、フランシナ・ブランカース=クンは、1948年の試合における4つの金メダルのお蔭で、時代の女性アスリートとして投票された。
 

フランシナ・ブランカース=クンは、女性の良い選手としてよく知られた。その後、他の良きスポーツウーマンとして登場したのが、アメリカのテニスプレイヤーのビリー・ジーン・キングだ。
 ビリー・ジーン・キングは12歳の時、女性の平等権について闘うことを決めた。そのために、彼女はテニスを選んだ。
 ビリー・ジーン・キングは1943年にアメリカのカリフォルニアのロングビーチで誕生した。彼女の家族はアスリートで、彼女もまたスポーツを好んでた。彼女は父親にどのスポーツをプレイできるかを尋ねた。彼女の父はテニスについて話した。
 その数ヶ月後、ビリー・ジーンの友人は彼女を初めてのテニスに誘った。彼女はボールを打つや否や、彼女がテニスプレイヤーになりたいことを悟った。彼女はロングビーチでプレイを始めて、わずかな仕事で貯めたお金でラケットを購入した。彼女の家族は決して裕福ではなかった。それでも、なお、彼女は母親に世界一のプレイヤーになることを宣言した。しかし、彼女は男性にとってと女性にとってのテニスが異なることを早々に気づいてしまった。
 彼女が12歳の時、ロサンジェルステニスクラブのトーナメント戦に参加したが、ビリー・ジーンは若いテニスプレイヤーたちのグループ写真には写っていなかった。その理由は、彼女は彼女の母親が着せていた短パンを着ていたからである。彼女は一般的な女性選手が着用するテニスの格好をしていなかった。このことで、彼女は少女がテニスプレイヤーになるのは難しいと教わった。
 彼女は成長し、大きなテニストーナメントで勝利し始めた。そして、1966年、彼女は夢を達成した。彼女は女性テニスの世界一になった。彼女は合計して5年間No.1になった(1967年、1968年、1971年、1972年そして1974年)。
 しかし、ビリー・ジーンは女性のテニスプレイヤーが男性と同額稼げないことを知る。1972年、アメリカオープントーナメントで彼女が勝利した時、男性のトッププレイヤーのイリー・ナスターゼより15,000ドル少ない賞金を受け取った。そのため、翌年のアメリカオープン戦には参加しないと彼女は言った。アメリカオープン戦は男女のトップ選手に同額の賞金を用意した。スポーツ歴史上、最古のテニストーナメントのウィンブルドンは、2007年に男女同額賞金の大きなトーナメント戦となった。今日、大きなトーナメント戦で男女同額の賞金が支払われる少ないスポーツの中の一つがテニスである。これはビリー・ジーンやその他、マルチナ・ナブラチロワとヴィーナス・ウィリアムなどのお蔭である。
 1973年、ビリーは別の戦いをした。相手は男性のボビー・リッグス。
 ボビー・リッグスは1930年代と40年代の男性テニス界のトップ選手だった。彼は1939年のウィンブルドントーナメントで優勝し、1941年、1946年、1947年と世界一選手となった。彼曰く、女性戦は男性戦より悪くなったという。彼は55歳のテニス選手ながら、女性のベスト選手に勝ってしまった。彼はオーストラリア選手のマーガレット・コートと戦った。ボビー・リッグスは簡単に勝利してしまった。それから、ビリー・ジーンは彼と戦うことを承認した。
 リッグスとキング戦は1973年9月20日にテキサスで行われた。30,492名の観客が集まった。また、テレビ越しに5,000万人のアメリカ人と37カ国9,000万人の観客が観戦した。29歳のビリー・ジーンは55歳のボビーに、6-4,6-3,6-3で打ち勝った。彼女は100,000ドルの賞金を受け取った。ビリー・ジーンはこの戦いが女性の権利にとって大変重要だと知った。
 彼女のテニスのキャリアでは、ビリー・ジーンは39の大きなトーナメントタイトルで優勝した。彼女は優秀なテニスプレイヤーであったが、それだけではなく、女性平等と女性のスポーツにおける賞金に関して大きな成果を出した。2006年8月28日、アメリカテニス連合の国際テニスセンターはUSTAビリー・ジーン・キング国際テニスセンターに名称変更された。


 多くの国でスポーツ界における女性の闘いは続いている。たとえば、サウジアラビアでは、2012年に初めて女性選手が参加した。彼らの名前はサラ・アッタールとウォジダン・シャハルハニである。サラは800メートルを走り、ウォジダンは柔道に参加した。
1980年から、イランでは政府が女性たちが男性スポーツの観戦することを取り締まっていた。しかし、現在ではそれは変化している。2018年6月には、アザディスタジアムの扉は男女ともどもに開かれており、2018年ワールドカップの最後のイラン2戦の期間も観戦できた。
 世界の事柄は目まぐるしく変化している。女性は観戦の権利のために戦い、それらを練習するために戦い、トーナメントに参加するために戦った。


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