『トランスジェンダーは性転換手術を受けるのをやめろ!』を読んで

いつつ さんの2024年5月24日の記事である
トランスジェンダーは性転換手術を受けるのをやめろ!|いつつ (note.com)』 ( https://note.com/hot_flea2416/n/ncf2abadfcf9f )を読んで、コメント欄に書ききれなかったのでこちらに書かせていただきました。


個人的な私の、肉体への考え方および接し方に近い考えを著者もお持ちなのだなと感じられました。
私の場合は性別がどうこう(変えられる、変えられない)というよりも(無論、完璧を求めすぎれば現代医学では変えらないという問題に行きつきつくから、かと言って受け入れ切れてもいないから苦しいのですが)「与えられた命を精一杯(なんとか)生きている、それだけ(しかできない)」なので、著者(いつつ さん)のものとは少しニュアンスが異なるかもしれませんが。私はまだこの状態を受け入れ切れていません。

そうした訳で私自身はそうした生き方をしている訳ですが、一方でそうした生き方を他者に奨めること(或いは、そうした生き方を他者に強制するのはなおのこと私には難しい)も、外科的治療を推奨することも、外科的治療を否定することも今の私には出来ません。

このような生き方は非常に苦しく生きづらい生き方であるのも確かであり、それと同時に、それ故に精神科治療あるいは及び外科的治療を求める人々が居るのも確かであり、政府は(性同一性障害者への医療提供および特例法などの適用により)それら(私を含む彼彼女ら)の一部分でも社会の構成員として扱おうとしているように私には思えるのです。

あいだに補足しておきたいことがありますので、ちょっと長めになりますが引用をはさまさせていただきます。
(引用開始)『この文章をすでに性転換手術を受けた方が読んだ場合、不快に思われるかもしれません。しかし、私は、性転換手術を受けた方を否定する意図はまったくありません。性転換手術という重大な決断をした方には、私には想像も至らないようなそれまでの道のりがあるはずでしょう。したがって、私はむしろそんな決断をした方を尊重します。』(ここまで引用)
私は「性別適合手術を受けるという重大な決断をした方」も「今まさに一秒一分と性別適合手術を受けてないままで今まさに生を重ねている人々」もどちらが上とか言う事ではなく「生きるという大変なこと」をなされておられるのだと思っています。

一方で、(引用開始)『性転換手術を受けること自体が、男性/女性という二分化された概念を助長することになりませんか?』(ここまで引用)という考え方および気持ちもよく分かるつもりです。そういう部分もあると感じています。私には特例法を適用された人々は一面でシスジェンダーとして、また一面ではトランスジェンダー(性同一性障害者)として、また一面では障害者という立場で生きている様に感じられるのです。
トランスジェンダーを認めたくない、シスジェンダーとして生きていきたい、埋没していたいというのは自らの内にある多様性に目をつぶり、隠して、気づかないふりをしつつ生きることであって、それはそれで大変なのではないかと感じられます。でもだからこそ必死になってトランスジェンダーを目の敵のようになさるのではないのでしょうか。その気持ちもわからなくはないです。

私の方も「少なくとも今の私には性別適合手術を未来永劫受けないという決断はできない、が今すぐ受けるという決断も”していない”、決断していない事を苦しみながらも他の道を模索しつつ積み重ねている」のです。特例法に乗っかった人も手術だけ受けている人もそして私もお互いにそれぞれの人生という戦いを生きているのだと私は思っていたいのです。もちろんマジョリティの人々もね、それぞれの人生というマイノリティの戦いを生きているのだと私は思っていたいのです。それが「本来のトランスジェンダリズムという言葉の使われ方=性別を押し付けないで」という事であり、私たちの誰もが社会性生物なのだという前提を確認する言葉なのだとも思います。

まだまだ私もわからないことだらけですが。
いつつ さん、インスピレーションをいただける記事をありがとうございました。

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