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碁将棋は親の死に目に会わぬ(意味に対して私見的な異論あり)

碁や将棋は熱中すると時間を忘れてしまいがちであり、
興じると親の死に目にも会えないことになってしまう、
ということ。(日本)

江戸時代の年中行事の一つである
「御城碁(おしろご)」の対局者は、
勝敗が決するまでは
帰宅も許されなかったことから
用いられ始めたことば。
とされています。

写真素材:皇居 桔梗濠 巽櫓

その意味として、
なにしろ遊び(←??)は
夢中になると
我を忘れてしまうものである。

(↑↑↑異論あり!後述しています↓)

特に碁や将棋といった
勝負ごとになると
その傾向が顕著になる。

あまりに熱中しすぎて、
親の死に立ち会えない
などという大失敗をしないように
しなければならない。
ほどほどに楽しむことが大切である。

としています。

????

(ここから異見です)
しかし、ここで疑問に思う。
「御城碁」の対局から
生まれたことばなのに
それを“遊び”と称してよいものかどうか?
かつては、遊びなどではなく
真剣勝負だったはずである。

本当にそんな「遊び」という
単純な捉え方で良いのだろうか?

囲碁や将棋のプロ棋士を見ていると、
己の技を極めるための
揺るぎないひたむきさに
感心させられます。

そのひたむきさを通して、
彼らは自分自身について
深い洞察を得て、
永続的な影響を世に残します。

私たちが何を追い求めるにしても、
遊びにしても、仕事にしても
愛する人が困っているときに
見せるような献身をもって、
真剣に心をこめて行わなければならない
ことを語らなければ
意味がないのではないだろうか。

要するに

中途半端な努力では、
意味のある結果は得られない。
きっと親の死に目に会えないほど
人生後悔することになるだろう。

という意味として、
締めくくりたい。

類語
・碁打ちは親の死に目に会えぬ
・碁に凝ると親の死に目に会われぬ

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やはり、人生そのものを真剣勝負で
生きてきた先人たちの言葉は、
どれも身に染みる言葉であり、
涙が出るほど感動するものがあります。

呉氏の仰る言葉には、
孔子が生きていたら、
「中庸の徳を得た」
言ったに違いないお言葉でした。

【中庸(ちゅうよう)】とは以前の記事に取り上げています。
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