見出し画像

瞑想と座禅の違いって?

さてこの記事は、タイトルでお分かりのとおり、瞑想と座禅の違いについて書くという大それたことをしようと思っています。瞑想のエキスパートでもないのに(汗)

でもでも、私はヘタレ瞑想実践者なりに、細く長く座禅と関わり続けてきました(詳しくは前回のエントリーをどうぞ)。そのなかで得た経験、知識をもとに、「瞑想・座禅について知らないけど興味ある」という人のお力になればと思い、書こうと思います。
※ただしあくまでもシロウトですので、間違っているかもしれません。もし間違いにお気づきになりましたらご指摘いただければ幸いです。

で、人からたまに聞かれるのが、「座禅と瞑想って違うの?」ということ。なので、今回はこのことを取り上げようと思います。

Wikipediaの座禅のページには、「瞑想と座禅は別概念」と書いてありますが、私の個人的な感覚では、「基本的には同じ」です(とは言ってもWikipediaのエントリーを書いた人にケンカを売るつもりはありませんσ(^_^;))。

瞑想も座禅も、英語で言えばどちらも「Meditation」です。

仏教では、このように精神を集中して自分と向き合う行為というのでしょうか、は「禅定」(ぜんじょう)と言うようで、例えば禅宗(曹洞宗と臨済宗)の座禅や、真言宗の阿字観、天台宗の止観(天台宗についてはこないだ人に教えてもらったばかりの知識です、てへへ笑)などがあります。それから特別な名前があるかどうかは分かりませんが、チベット密教でも瞑想をします。

「座禅」は「無になる」、「頭を空っぽにする」という話を聞いたことがあると思います。それが「座禅」または「瞑想」だと思われることが多いと思いますが、チベット密教では視覚化を使うこともするそうです。つまり瞑想は「無」になるばかりではない、ということです。

あ、ちなみに私、現在通信制の大学で心理学を学んでいるのですが、仏教系の大学のため仏教関係の授業でも単位が取れる場合があります。ということで、去年度は密教についての授業を1つとりました。密教ってこれまでなんだかミステリアスで厳格なイメージだったのですが、だいぶそのイメージが変わりました。。。ここに詳しくは書きませんが、「え、厳格じゃないの!?」とご興味のある方は、「秘密集会タントラ」でググってみてください。

--✂️--✂️--✂️--✂️--

閑話休題。

では仏教以外に瞑想はないのか、というと、私が普段、瞑想するために使用しているアプリ「Insight Timer」でも、キリスト教徒だと思われるユーザーがいたり、前回説明した「ガイド付き瞑想」でも、キリスト教徒を対象としている瞑想があったりします。それから、「祈り」が瞑想に近い行為なんじゃないかな〜と私は思っています。

ただどこかの本で読んだことあるのが、「祈りは神との対話であり、瞑想は自分との対話である」みたいな言葉です。そう考えると、瞑想と祈りの違いは分かりやすいかもしれませんね。

ということで、座禅も阿字観も止観も瞑想も、方法が違うだけで、目的は「本来の自分と向き合うこと」という意味で同じなのではないかな、というのが私の考えです。

例えば、街にあるコースを走るマラソンと山道を走るトレイル・ランは、ゴールに至るまでのプロセスが違い、そこで目にする景色も、使う筋肉も若干違うかもしれません。でも、スタートして自分の足で走ってゴールする、という目的は同じです。座禅と瞑想の違いも、そんなところではないかな、と思います。

と、脳みそが筋肉でできてる(わりにはヘタレな)体育会の私はなんでもランニングに例えてしまいますが、ランナーさんなら分かっていただけるかな!?😅

あなたのご支援が心の糧になります💓 遠慮なくご支援を。さぁ。遠慮なく。