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パフォーマンス重視の先に残るもの

例えば、「ここちょっと直して」という指摘を、やわらかくオブラートに包む人もいれば、それは出来てないとダメじゃないのと厳しいニュアンスで伝える人もいる。

厳しいニュアンスで要件を伝えられた時はやはり心が動く感じがする。
次は気をつけようと強く意識を持てたり、時に傷ついたりしながら、その要件をより重要なものとして捉えることができる。

受け取る側のスキルとして、指摘されたその要件を重要に捉えるような感受性を持ちつつ、多少厳しい言われ方をしても傷つきすぎず要件を受け止めて改善することが必要だ。

伝える・教える側のスキルとして、相手を傷つける言い方にならないようにその要件が出来ていないことの重要性を相手に伝えることが必要だ。

また、指摘することが初歩的なことであった場合「こんなこと言わせんなよ」という雰囲気を出さないことは非常に重要である。
そういう個人の持つ独特の「機嫌」や「雰囲気」というものは受け取る側のストレスが非常に大きく、健全な学びの妨げとなる。

他人との対話は何が返ってくるか分からず、時に傷つき自分も相手を傷つけたりする。
相手との分かり合えなさに絶望し、受け入れるか遠ざけるかの判断を重ねていくことで自分の感情が育っていく。

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こうも人間同士のコミュニケーションコストが大きいと、尚更人間同士の付き合いが嫌になってくるものである。
分からないことを聞いた時、ChatGPTの方が人間より一倍優しく感じるのは、このような「機嫌」や「雰囲気」という人間独特のストレッサーが無いからだろう。

もしも今後対話型AIが発展し、フラットでチャーミングで心地よい対話のできるデジタル相棒が一般的になったとして、そのデジタル相棒とのコミュニケーションは、ずっと天気や気温の変わらない温室のような心地だろうか。

快適な物流、快適な交通が当たり前になり、人々はタイムパフォーマンスを重視するようになった。

近い未来、人間⇆人間ではなく、AI⇆人間の対話が様々な場面で一般的になっていくことを想像すると、人間同士のコミュニケーションコストが高いことからコミュニケーションパフォーマンス(コミュパ?)を重視するようになるのだろうか。

仮にそうなったとして、
時間だけでなくコミュニケーションまでも無駄が省かれ、パフォーマンス重視になったその先に残るものはなんだろう。

各々にとっての「コストをかけてまでやりたいこと」が残っていたら私は嬉しい。

詰まるところ、早送りせず吟味し向き合いたいと思えることこそ自分の大事にしたいことなのだと思う。

時間とコストをかけたいと思えるものに出会えることが幸せなのかもしれない。

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